コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(135)ゴッホとゴーギャン~ゴーギャンには申し訳ないのだけれど~

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有名なゴッホの「耳切り事件」が起きたのは12月のことだからたった2か月後だ。ゴーギャンは再びエミール・ベルナールにこの事件のことを伝えている。それによると、ゴーギャンの後をゴッホが追いかけてきて「あなたは無口になったから自分もあまり話さないようにするよ」と伝えた後に“黄色い家”に帰り耳を切ったということになっている。

自画像
自画像」/ ゴッホ

ただ、晩年のゴーギャンが書いた自伝によると、ゴッホが剃刀を持って襲ってきたと話しが変わっている。この“事件”に関して目撃者はゴッホとゴーギャンしかいないし、ゴッホは一言も話していないから、ゴーギャンの証言だけが頼りだ。とはいえ度々、自分に都合の良いように嘘を吐くゴーギャンだから、僕はゴッホが自分で耳を切ったということも疑っている。

一度、美術アカデミーの遠藤理事長を伊豆の別荘に送迎する車の中で訊いたことがある。

「ゴッホの耳を切ったのはゴーギャンじゃないでしょうか?」

また勝手なことを言うな、とお叱りを受けるかと思ったら「そうかもしれないな」と返ってきた。ゴーギャンは気が荒かったし、剃刀を持って襲ってきたゴッホなど余裕で返り討ちにできるだろうということだ。ゴッホが病院に担ぎ込まれた翌日にゴーギャンは逃げるようにアルルを去っている。

その後も手紙のやり取りは続いたようだけれど、もはや「アントウェルペンにアトリエを設けよう」というゴーギャンからの提案も、妻に嘘の手紙を書くのだから言葉通りに読み取るわけにはいかない。

“耳切り事件”の2年後に、ゴッホは麦畑で拳銃自殺をすることになる。もっとも致命傷ではなく、翌日に事件を知らされた弟のテオが駆けつけた時にはまだ意識があったようで、亡くなるのは事件の2日後だ。

この目撃者もゴッホ本人しかいないから、実は一緒にいた少年たちが誤ってゴッホを撃ってしまったのに、ゴッホは彼らを庇って自分で撃ったと偽装したのだという話もあるくらいだから、画家仲間のゴーギャンを庇って沈黙を続けたのかもしれないというのは僕の勝手な思い込みだけれど、ゴッホの死後に友人だったエミール・ベルナールがやり取りをした手紙を公表すると、翌年にゴーギャンもまるで自分のアリバイを作るように「自分と一緒にいた時から既にゴッホは気が狂っていた」とゴッホとの回想録を発表したから、やっぱり怪しい。

自分の絵を売ってくれる画商でもあったゴッホの弟テオとの取引をご破算にしないためにも、まさか兄ゴッホの耳を切ったなんて口が裂けても言えないだろうから嘘を吐き続ける理由もある。実際にテオが亡くなるまで取引は続いた。

一方で、皮肉にもゴッホの作品は、エミール・ベルナールとの手紙が公表されると、彼の敬虔な信仰心や、美術に向かう真摯な態度が多くの人の心に響いて、再評価されることになる。画家の人格が作品の良し悪しとは関係ないと思いながら、こうなると全く関係ないとも思えなくなる。

ただ、それでも画家の人格と作品の良し悪しは関係ないという前提で言えば、この後のゴーギャンの行いも耳を疑うものばかりだ。自尊心も高すぎると、自分では気づかないうちに身の回りに起こっている事実さえ歪めてしまうのかもしれない。

アルルにも居場所のなかったゴーギャンは、ゴッホの死から1年後にタヒチに向かう。この旅費を捻出するために絵を売る必要があったゴーギャンが、自分の作品を良く書いてくれと美術批評家に頼んだ話まで知ると、自尊人が強い割には他人に取り入るのは上手なんだと感心してしまうけれど、これも言葉通りの意味ではない。やはり傲岸不遜という方が似合う。

ゴーギャン本人に言わせれば、タヒチに旅立つ理由は「ヨーロッパの因習や人工的な何もかも」からの決別だということであるけれど、それまで“ヨーロッパ”で集めた写真やデッサンを後生大事に持っていたらしいから、やはり言葉通りに読み取るわけにはいかないけれど。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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