北斎は、この頃の常人では考えられない程、変な人なのです。九十三回も引越しをして居所を変えています。普通なことでは考えられませんね。
名前(号)も三十三の画号を持っています。このことも変です。
住居を移し、名前を変えてしまうと人は訪ねてくることができません。絵師への注文依頼も無くなります。北斎は、あえて名前を変え居所を判らなくしているとしか思えません。
江戸の人別帳には、北斎は住居不定と書かれていたそうです。百万人群市といわれる江戸市中の人別帳で住居不定と書かれていたのは北斎一人だけだったと記されています。
これらのことが、北斎の隠密説の裏付けと言われていますが、それだけではありません。
北斎は、色々な術を行う術者でありましたね。術というのは絵を描くとこともその一つです。所を変え、名前を変え、風のように移動するのも変幻の術だと言えます。北斎が描いた百二十畳のダルマ絵などなど忍者が使う目くらましの術といえます。
この頃の風情は、幕末まで十数年前の時々で情報が乱れとび、二百七十もの各藩は、必死に情報を集め、時の動きに対応すべく動いていた時世です。
この時期に、北斎は各藩をぐるぐると動き回っています。どこから見ても不審な男です。しかも、女(娘のお栄)と弟子を伴ってすさまじい速度で移動する絵師なのです。
北斎の描く剣術、槍術、柔術、馬術、弓術とあらゆる術をとっても細かく描いています。これらの武術の細部を的確に表現することはとても難しく、自信が相当に熟知していないと描けないと言われています。北斎は、相当の武術の体得もしていたと考えられます。
まだあります。
北斎は、忠臣蔵で知られる吉良家の家老である小林平八郎の曾孫であると名乗っているのです。小林平八郎は智謀で知られ、剣の腕も一流であったといわれている人物です。
これらを考え合わせると、各国を歩き、多くので弟子を各所(藩)に持ち、この時代の情報を一番持っていた男が北斎なのです。絵師の隠密が一番恐れられていたといいます。絵図面を正確に画き絵で見せることが出来るからです。
北斎は隠密か?多分その通り、隠密だったのでしょう。そのほうが話も面白いでしょうね。
・【コラム】行動派の旅の絵師、北斎 -常に高みを目指し続け、精進を続けた- / 藤 ひさし