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【コラム】美術の皮膚(186)マネの黒とマネの闇~鳴かず飛ばず描かず…でもない~

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旧友たちにどんどん先を越された上に、体調を崩して焦ったマネは、大作に取り掛かろうとしたけれど、健全な精神も健全な肉体も持ち合わせていないのだから完成するどころか、5年前にモネたちと描いたきわめて印象派的な作品を引っ張り出してサロンに出品した。この頃になると、印象派展も第4回目を迎えていて、入場者数は(冷やかし客が大半だった)最初の5倍にも膨れ上がってパリの人々の間で少なからずの話題になってきているから、印象派へのオマージュというよりも、マネがその人気を利用しようとしたに違いないと、お叱り覚悟で疑いたくなる。

◆1879年(サロン出品)

Edouard Manet Boating
入選『ボート遊び』1874年/メトロポリタン美術館/image via wikipedia
In the Conservatory edited
入選『温室にて』1879年/ベルリン旧国立美術館/image via wikipedia

もはや権威に認められたくて問題作さえ描かないマネの作品は、落選さえせずにその他大勢の入選の常連になっていると言ったら過言かもしれないけれど、今でも代表作が初期に描いた『草上の昼食』と『オランピア』であるのだから、その後に世間があっと驚くような傑作が生まれた訳でもない。市場での価格もせいぜい30万円くらいだったようだ。

◆1880年(サロン出品)

Edouard Manet 031
入選『ラテュイユ親父の店』1879年/トゥルネー美術館/image via wikipedia
Édouard Manet Antonin Proust Google Art Project
入選『アントナン・プルーストの肖像』1880年/トレド美術館/image via wikipedia

体調は一向に回復に向かわずに、パリを離れて田舎での静養を余儀なくされた中で、サロンへの出品を続ける執念は、例えそれが美化すべきではない権威への執着だったとしても、否定はできないけれど、作品の出来栄えはといえば落選こそしないものの、無審査での出品の権利が得られる上位入選には至っていない。

サロンでの評価や勲章を欲しがり過ぎて、どんなにマネを19世紀末パリをクールに描いた画家だとこじつけても、作品を観ればルノワールカイユボット区別がつかないと言ったら、きっと僕の審美眼のせいだと叱られるかもしれないけれど、お叱り覚悟で言えば彼らの劣化版でさえある。

実際に、マネが「絵が下手だから画家を辞めた方が良い」と言ったルノワールはちょうどこの頃『シャルパンティエ夫人と子供たち』がサロンで高い評価を受けて、人気の肖像画家として名声を手に入れた。

辛うじて、中学校時代からの旧友でルーブル美術館にも一緒に通ったプルーストの肖像画は、マネの好きなスペイン風になっているけれど、もはやそんなことよりも作品はサロン会場の隅に追いやらていたから、マネは急いで言い訳がましい手紙をプルーストに送っている。

なぜなら当時のプルーストは国会議員であり翌年には芸術大臣に就任するまでに出世していたから、彼の肖像画がそんな扱いをされてしまったことをマネは詫びる必要があったからだ。ただ、あまりにも迅速なマネの対応が僕には、あわよくば旧友のコネを使ってでも勲章を欲しがる浅ましさに見えてしまうのは、やはり「勲章をもらうためなら何でもするつもりだ」というドガへの言葉が頭を過るからだ。

マネやマネのファンには申し訳ないけれど、反抗期を拗らせた上に、権威へのコンプレックスを抱えたまま尊大に振舞うマネに、もはやメッキでも何でも良いから一刻も早く金メダルを差し上げて欲しい。若い頃の放蕩三昧のせいとはいえ、尊大な印象派の父として振る舞いつつ鳴かず飛ばずのままもうすぐマネは50歳になる。しかしそのことは誰よりもマネ本人が自覚している深い闇でもあったのだと思う。

「印象派の父」としての外面ではなくて、ひとりの画家、そして人間として藻掻き苦しむマネが、一切の柵なく描く絵が何なのか?猛烈に知りたいけれど、きっとマネは無審査でサロンに出品できる権利(上位入選)を手に入れるまでそんな絵は描いてはくれない気がする。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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