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【コラム】美術の皮膚(106)「世紀末芸術~クリムトの最期の言葉~」

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クリムトといえば、アトリエにモデルとも恋人ともつかない関係の、裸の女性たちを何人も侍らせていたと云われているけれど、実は30歳を過ぎた頃に失恋したと云われてもいる。お叱り覚悟で言えば、そこからクリムトの“ファム・ファタール(運命の女性)”探しが始まった気がする。

お相手は、アルマ・マリア・シンドラーといって、当時ウィーンで有名だった才色兼備の女性だ。母親は芸術家たちを集めて“サロン”を主宰していたけれど、作品だけではなく私生活も端たない画家との交際は許さなかったようだ。

しかし、アルマはほどなく、親に反対されていたにも拘らず、新進気鋭の音楽家グスタフ・マーラー(1860~1911)と1900年に結婚してしまう。

その2年後には前述「第14回分離派展(ベートーヴェン展)」が開催されて、そこでクリムトは『ベートーヴェン・フリーズ』を発表して、マーラーは「ベートーヴェン交響曲第九」を演奏したのは皮肉なことだけれど、実は『ベートーヴェン・フリース』のモデルはマーラだとも云われてるから、これがクリムトの当て擦りだとしたら、“音楽と美術の融合”を謳ったクリムトに対して、マーラーはそれほど美術に興味がなかったようだから少し哀しい。しかも、アルマはマーラーの死後にクリムトではなく(墺)オスカー・ココシュカ(1886~1980)と恋に落ちてたりしているから世紀末の恋もまた混沌だ。

失恋の傷を負ったクリムトの“ファム・ファタール”像は、『ユディトⅠ』(1901年/オーストリア絵画館)に見られるように、極めて私的な解釈で描かれている。

ユディト I

前述したように、世紀末に“ファム・ファタール”の象徴として描かれた、敵将を色香で惑わせて寝首を掻いた旧約聖書の“ユディト”と、愛する男の首を切らせてそこに口づけをした新約聖書の“サロメ”は、その物語の違いから、実は描き分けるための不文律がある。異端の画家(伊)カラバッジョ(1573~1610)でさえ、そのルールに忠実に描いている。

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カラバッジョ:ホロフェルネスの首を切るユディト / image via wikipedia

『ホロフェルネスの首を切るユディト』(1599年/イタリア国立古典絵画館)と『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1609年頃/スペイン・マドリード王宮)を見比べれれば一目瞭然のように、敵将の首を獲った“サロメ”は剣を持ち、継父である王に首を捧げる“ユディト”はその首を載せた銀の皿が描かれてきた。

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カラバッジョ:洗礼者ヨハネの首を持つサロメ / image via wikipedia

クリムトの『ユディトⅠ』はそのどちらでもない。敵将ホロフェルネスの“首”は画面右下にちらりと見えるだけだし、彼女の恍惚の表情はむしろ“サロメ”を連想させる。そして、モデルの女性は、クリムトのパトロンのひとりであった実在の女性“アデーレ・ブロッホ=バウアー夫人”だと云われている。

“Ⅰ”があるから“Ⅱ”もある訳で、8年後に描かれた『ユディトⅡ』(1909年/ヴェネツィア近代美術館)は、男の首はまるでデザインの一部のように描かれ、“ユディトも不機嫌そうな顔をしているから、発表当初に「サロメ?ユディト?」と鑑賞者を悩ませたけれど、クリムト本人が「ユディトだ」と明言することで決着がついたくらいだ。

マルガレーテ・ストンボロー=ヴィトゲンシュタインの肖像

皮肉にも、失恋後のクリムトは、『マルガレーテ・ストンボロー=ヴィトゲンシュタインの肖像』(1905年/ノイエ・ピナコテーク)、『フリッツァー・リードラーの肖像』(1906年/オーストリア絵画館)といった、ドイツ版“アール・ヌーヴォー”ともいえる“ユーゲント・シュティール(青年様式)”の象徴的な肖像画で富裕層の人気を博して、中でも前述した『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』(1907年/オーストリア絵画館)では、室町時代に本阿弥光悦と俵屋宗達が創始した“琳派”にも影響を受けたと云われる“黄金様式”という絶頂期を迎える。

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像

絶頂期を迎えればスランプもある訳で、その時に傍らで善きパートナーとしてクリムトを支えたのが、ウィーンのファッショニスタとして成功していたエミーリエ・フレーゲルだった。

彼女は、クリムトの弟エルンストの妻の妹だから、クリムトの義妹ということになるのだけれど、当時には珍しい経済的にも自立した女性で、生涯クリムトとは結婚はしなかったけれど、100年以上も前の他人の恋路だし、あまり勝手なことは言えないものの、間違いなくクリムトの“ファム・ファタール”であったはずだ。

日本の屏風の形に似せた正方形の中に、少し窮屈そうに、でも抱擁し合う男女の仲を緊密に描いたクリムトの代表作『接吻』(1907~1908年/オーストリア絵画館)は、エミーリエと自身を描いたと云われているし、決して退廃的でもエロスを感じるような作品ではない。

接吻
接吻

そしてクリムトは、彼女と過ごした避暑地でとても明るい“印象派”のような風景画を描いている。きっとクリムトの“ファム・ファタール”探しの旅は、彼女と出会って終わりを迎えた気がしたのだと思う。クリムトの最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」だ。

僕はふと、自身の人生の機微に影響されて多様な作品を遺した(西)ピカソ(1881~1973)を思い出した。友人を亡くして落ち込んでいた“青の時代”、恋人ができて絵も明るくなった“ばら色の時代”、戦争に憤慨していた“ゲルニカの時代”。だから、クリムトをただの“背徳とエロス”の画家と評価する向きには反対したい。へそ曲がりな僕は、ピカソなら“ばら色の時代”、クリムトなら避暑地の風景画が好きだ。

だから僕はクリムトを、“象徴主義”の流れに組み込むことはできないし、かといって“ウィーン分離派”という地域的な小さめの器に入れることもできないでいる。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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