コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(131)ゴッホとゴーギャン~新印象派スーラと反印象派の総合主義~

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口先ばかりが偉そうなゴーギャンは、自業自得とはいえ絵は売れないし仲間もいなくて、パリを離れざるを得ないから、物価の安いフランスの北西部ブルターニュ地方のポン・タヴァンに引っ越した。

ただ、パリから500kmも離れた自然豊かな街には、観光客に混じって若き画家たちも集まっていた。その中にいたのが、当時の流行であった新印象派に悪態をついて真向反発したゴーギャンを面白がって訪れたの(仏)エミール・ベルナール(1868~1941)だ。

グランド・ジャット島の日曜日の午後
グランド・ジャット島の日曜日の午後」 ジョルジュ・スーラ

ゴーギャンと同様に、印象派をさらに進化させたスーラ点描画を新しい流れとする動きに同調できなかったベルナールは太い輪郭線で分割された“クロワゾニスム”を生み出していた。その代表作である『草地のブルターニュの女たち』(1888年/個人蔵)を描き上げてゴーギャンに見せに来たのだった。

Émile Bernard 1888 08 Breton Women in the Meadow Le Pardon de Pont Aven
草地のブルターニュの女たち」 image via wikipedia

“クロワゾニスム”の力強い描線を見れば明らかなように、ゴッホと共に浮世絵から強く影響を受けたベルナールだったけれども、感覚的なゴッホよりも理屈っぽくて弁の立つゴーギャンと“総合主義”を確立させていく。目に映る対象物の外観、そこに対峙する画家の感覚、そして色や線といった美術的な要素の3つを総合する“総合主義”は、まさにゴーギャンが印象派をなじった理由と同調する。

ゴーギャンが唱えていた“総合主義”の理屈は、自分を評価してくれなかった“印象派”への意趣返しの側面を強く感じるから、“クロワゾニスム”という画法がなければ、作品へと昇華するはずもない屁理屈だと言ってしまうと少し暴論かもしれないけれど、実際にその具体的な表現として“クロワゾニスム”は打って付けだったから、今ではほぼ同義の言葉として扱われているのもまた事実ではある。

そうなるとゴーギャンの主張とは違って“総合主義”の中心にいたのはゴーギャンではなくて、ベルナールだということになる。ゴーギャンの描いた『説教の後の幻影』(1888年/スコットランド国立美術館)は、明らかに『草地のブルターニュの女たち』の模倣だ。

説教の幻影
説教の幻影」 ポール・ゴーガン

それなのに傲岸不遜なゴーギャンは声高に“総合主義”を確立したのは自分だと吹聴するものだから、ベルナールはゴーギャンに自分の画法を「盗まれた」と反発して、二人は袂を分かつことになる。とはいえ弁の立つゴーギャンは自分こそが“総合主義”を生み出したと言い張るものだから、諦めたベルナールは晩年になると、アカデミズム絵画へと傾倒していく。

いつも喧嘩は両成敗だとしても、ピサロに続いてベルナールとも諍いを起こしたゴーギャンには、何か問題があるに違いないと思ってしまうのは、この後のゴーギャンの人生を知れば、それほど無理筋でもない。

それにしても、ゴーギャンではなくもう少しベルナールの押しが強くて“総合主義”のリーダであったならば、現代絵画の父セザンヌから「中国の切り絵」だと揶揄されずに済んだかもしれない。他人の悪口ばかりを言うゴーギャンには、それ以上の悪口が返ってくる。

ただ、ポン=タヴァンでは、傲岸不遜なゴーギャンの性格が功を奏する出来事も起こる。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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