コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(124)「ハプスブルク~マリー・アントワネットの愁い~」

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ナポレオンの市民革命とヒトコトで言っても、市民革命自体は1789年にアンシャンレジーム(絶対王政の旧体制)の象徴とされたバスティーユ牢獄の襲撃から、1799年ナポレオン独裁の革命政府樹立や、ドラクロワが『民衆を導く自由の女神』(1830年/ルーブル美術館蔵)に描いた“7月革命”を経て、ようやく労働者階級中心の1848年2月革命まで、70年くらいかかっているから、革命の主体も「貴族→ブルジョワ(資本家)→プロレタリアート(労働者)」とヒステリックに目まぐるしく替わる。

民衆を導く自由の女神

その過程で1793年にはマリー・アントワネットが処刑されるのだけれど、前述のように彼女はハプスブルク家から嫁いできたルイ16世の王妃だから、やはりそれまで程ではないとはいえハプスブルク家の栄華は、絶対王政の象徴であったのだと思う。ただ、巷間で言われているようなマリー・アントワネットのキャラクターは、ナポレオン革命を肯定するためにかなり悪者として歪曲されているようだ。

歴史は勝者が上書していくから、僕みたいなおっちょこちょいは気を付けないとすっかり騙されるけれど、美術アカデミーの師匠は、それを慎重に見極めるために、例えば「三国志」ならば日本、中国、韓国の作家が書いた複数の著作を読んで、それぞれの視点で歴史を理解しようとする。もちろん面倒くさがりの僕は、本を読まずに、読んだ師匠に話を聞いて済ませるけれど。

憎きプロイセンを倒すために、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアがそれまでの宿敵フランスと手を組むために、ルイ16世に嫁がせたのが娘のマリー・アントワネットだったことは既にご案内だと思うけれど、名門ハプスブルク家に比べて格下で野蛮なフランスでの生活になじめる訳もなく、宮廷内に働く人々との小競り合いは毎日だったらしい。

Kaiserin Maria Theresia HRR
「マリア・テレジア」 / image via wikipedia

しかし、それは決して奔放な浪費家としてではなく、自分を誇示するような新しい宮殿を造らなかったり、宮廷内の無駄なしきたりをやめさせたり、貧困な人たちのために寄付を募ったり、その一方で自分の子供達には玩具を我慢させたりしていたらしい。

本当に育ちの良い人は見栄を張って贅沢したりしないから、僕はこっちのエピソードを信じたくなる。それどころか、改革者でさえあったから、変化を望まない特権意識を持った宮廷内の使用人たちに陰口を叩かれたりして、市民の窮状に「パンがなければ、ケーキを食べれば良いのに」なんて言ったことになってるけれど、言ってないらしい。本当に人の口に戸は立てられない。

そんなマリー・アントワネットも華麗で優美なロココ美術を愛した。特に貴族趣味のロココとナポレオン趣味の新古典主義の狭間18世紀に最も活躍した女流画家(仏)エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755~1842)は、同い年ということもあって、肖像画を描いてる時だけでなくても、敵だらけの宮廷内でマリー・アントワネットの良き話し相手だったに違いない。

Vigée Lebrun Marie Antoinette 1783
「エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン」/ image via wikipedia

フランスの市民革命の盛り上がりは、ヨーロッパ中の王侯貴族を震え上がらせるには十分な大騒動だったから、ドミノ倒しみたいに市民社会が始まって、フランス2月革命は“諸国民の春”と呼ばれたりもしている。ただ、そのせいで民族意識が高まり植民地の独立意識が高まってくると、地域の独立意識を尊重して緩やかな統治をしていたハプスブルク家としては、逆風にさらされることになる。細々とだけれどオーストリア・ハンガリー帝国として遺っていた家柄さえも、戦争の大陸が戦争の世紀を迎えると木っ端微塵に吹き飛ぶことになる。

その序章は、オーストリア・ハンガリー帝国が、オスマン帝国からの独立運動に手を貸して、ロシアには気を遣いつつバルカン半島のボスニアとヘルツェゴビナという2つの州を傘下に治めたことに始まるから、栄華再びの欲が災いしたことになる。

時代は、ハプスブルク家が栄えた頃と違って、なんといっても“戦争の世紀”だ。刻一刻と変貌する情勢の中で、ハプスブルク家の皇位継承者でもあるオーストリア大公夫妻がボスニア出身セルビア人テロリストに暗殺されてしまうから、ハプスブルク家崩壊だけではなく、世界中を巻き込んだ人類史上初めての大戦が勃発する。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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