コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(103)「世紀末芸術~クリムトというブラック・ホール~」

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図らずしも(英)ジョン・ラスキンが言った「塵には地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいる」ように、近代の画家のあるべき姿の結末は、塵となってヨーロッパ中に舞ったようだ。綿々と繋がる美術史の分岐点のひとつとして、画派としては不完全燃焼ながら“ザ・クリーク”“ラファエル前派兄弟団”も、様式とは関係なく“非古典美術”に挑戦する画家たちの背中を押したに違いない。細かいことを言い出したら、複雑で切りがない19世紀末の美術だけれど、きっとそれが“世紀末芸術”なのだとも思う。

まさか、日本の東北地方でもその“結末”が児童文学「注文の多い料理店」となって潜んでいたというのは、僕の妄想でもなんでもなくて、著者の宮沢賢治も「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」と言っている。

僕の拙い知識でも20世紀に入ってからの画派は

  • “フォービズム”
  • “キュビズム”
  • “ダダイズム”
  • “表現主義”
  • “バウハウス”
  • “アール・デコ”
  • “シュルレアリスム”
  • “エコーロ・ド・パリ”
  • “抽象表現主義”
  • “ミニマリスム”

と、乱立している。「何を描くかではなく、描くこと自体が意味を持つ」と“主題の終焉”を謳った“モダン・アート”の時代が始まって、様式ではなく画家の自己主張が始まるのだから仕方がない。少し過度な気がしないでもないけれど。

その起点は、現代アートの父(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)『アヴィニョンの娘たち』(1907年/ニューヨーク近代美術館)とも、(仏)エドゥワール・マネ(1832~1883)『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)とも云われているけれど、その多様性の萌芽は19世紀末の混沌の中から生まれた気がする。

草上の昼食

そして、その混沌の中心こそがフランス発の“象徴主義”でも、イギリス発の“ラファエル前派兄弟団”でもなくて、ウィーンであった気がしてならない。

実は以前にも少しだけ触れたように、恐らく初めて伝統的なアカデミーに反抗の狼煙が上がったのは、“ルカ兄弟団”が結成された1809年のウィーンだ。

(仏)ギュスターヴ・モローが生まれる17年前、(英)ジョンラスキン「近代画家論」(1843~1860)が出版される34年前、“ラファエル前派兄弟団”が結成される39年前、ベルギーで“20人展(レ・ヴァン)”が発足する74年前、(英)オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が出版される84年前のことだ。

ただ、“ルカ兄弟団”その後“古典美術”の素晴らしさを再認識すると“ナザレ派”と名前を変えて“ドイツ・アカデミー”の中心となったから、そんなに目立ってはいないけれど。

まるでそこから散った“塵”が、100年近くかけてウィーンに舞い戻って来たように、1897年に“ウィーン分離派”が生まれたのは偶然ではない気がしてならない。しかもたった僕のイメージだけれど、“耽美主義”の彼らは、様式には拘らずに自分たちの美意識を信じて、100年前にヨーロッパ中に散った“塵”を吸い込むブラックホールのように、美しいと思うものすべてを受け入れた。

その中心にいたのが(墺)グスタフ・クリムト(1862~1918)であることは恐らく間違いない。そして、アインシュタインの一般相対性理論さえ破綻させる“星の墓場”であり、光さえ逃がさない“ブラック・ホール”は、栄光のハプスブルグ帝国という巨星の終焉に似ている。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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