コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(5)「解放こそがモダン・アート」

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20世紀に入っても尚、依然として宗教画や神話画が、肖像画や風景画ましてや静物画よりも上等だと云われていた美術界の中で、何を題材に描くか?ではなくて、描くコト自体が意味を持つという「主題の終焉」の訪れは、とても大きな意味を持つし、描きたいモノを描けるというコトは、さぞ多くの画家たちを奮い立たせたとも思う。その拠点であったパリは熱気に包まれていたはずだし、そこにはピカソがいた。

Les Demoiselles d Avignon
アヴィニヨンの娘たち(Les Demoiselles d'Avignon)/image via Wikipedia

モダン・アートの始まりは1907年と云われているけれど、それはピカソが「アヴィニヨンの娘たち」を発表した年だ。

彼は、こうあるべきだという既成の概念から、フォルムや素材を解放した。こうして20世紀美術は、政治や宗教に利用されたり、官制アカデミーの規則や様式に縛られたりするのではなくて、アートは常にアートそのモノのために革新、前進していくものだと規定されていく。

具体的にピカソは、ジョルジュ・ブラックと共に「キュビズム」という画法を発明した。これは、ルネッサンス以来の常識的な遠近法の一つである「一点透視図法」をぶち壊すもので、まさに美術の新時代を拓いた。

ブラックはその後、ピカソともキュビズムとも決別して、落ち着いた静物画を描くようになるので、ピカソほど有名ではないけれど、ピカソも認める美術理論を展開してキュビズム創始に多大な貢献をしている。

ほぼ同時期に、強烈な色彩が特徴の「フォービズム(野獣派)」の代表的な画家である、アンリ・マチスがいる。

ピカソがフォルムと素材を解放したのなら、マチスは色を解放したといっても過言ではないのだけれど、やはりピカソほど有名でないのは、恐らくマチスは天才肌、ピカソは努力肌で、それに加えてブラックの理論的な背景を持っていたことが大きく影響しているのだと思う。

実際に「キュビズム」という名前は、ピカソやブラックが戦略的に提唱したものだけれど、「フォービズム」は、象徴主義のキュスターヴ・モローが指導した弟子たちの一群の作品を観た批評家のただの感想に由来していて、マチス自身はその呼ばれ方を嫌っていたらしい。

ピカソとマチスは、それぞれの採った画法の違いもあって、美術史の彩りとして仲が悪いことになっているけれど、実際はお互いを尊敬しながら切磋琢磨していたと考える方が現実的だし、両者が共に影響を受けているのは、ゴッホゴーギャンといったポスト印象派の画家たちで、特にポール・セザンヌについては、ピカソとマチスは口を揃えて「近代絵画の父である」と言うのだから、二人が何か言い争いをしていたとしても、それは推して知るべしというところだろう。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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