コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(78)「印象派物語~物語の始まり~」

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僕の勝手な“青春群像”印象派物語には、主役のモネピサロモリゾドガカイユボットの他にも、今や巨匠と呼ばれている画家たちが登場する。 

ピサロの影響を受け、モネの才能を認めながらも独自の画風を模索して、印象派から離れた後に“近代絵画の父”とまで呼ばれるようになった(仏)ポール・セザンヌ(1839~1906)や、ちょい役だけど存在感を見せる(仏)ジャン=フランソワ・ラファエリ(1850~1924)、(仏)ポール・ゴーギャン、(米)メアリー・カサット(1844~1926)

また、画家たちを取り巻く人物としては、アメリカ市場を開拓して印象派の商業的なキーパーソンとなった近代画商の先駆け(仏)デュラン・デュエル(1831~1922)、1906年「印象派の画家たちの歴史」を出版して逆風の時代に彼らを擁護した美術評論家の(仏)テオドール・デュレ(1838~1927)は特に日本人と印象派のの関係を紐解く重要な役割を担っている。

19世紀のパリで、彼らが織りなしたドラマこそが、印象派という芸術活動なのだと言ったら過言だけれど、なぜ印象派をこれだけ日本人が好きなのか?を、西欧化が進んだ19世紀終わりに、文化の中心パリでブームだったという節操のなさそうな文脈だけで納得できなくて、無責任にも“キリスト教から独立した精神文化”だとか、“体制に逆らった若者たちへの判官贔屓”だとか言ってしまうものだから、やはり日本人の好きな、戦国時代や三国志、ポケモンのような“群像”だったと信じて、“印象派物語”に仕立ていきたくなる。

登場人物の紹介を終えたから、物語のスタートは、1863年に、フランス政府公認の芸術アカデミーが開催した“官展(サロン・ド・パリ)”に遡る。その当時の美術大国フランスでは、それまで古典絵画の牙城を守りながら自ら革新的な地平を拓き、保守と革新の絶妙なバランスで圧倒的な存在感を見せてきた(仏)ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780~1867)の流れを汲んだ(仏)アレクサンドル・カバネル(1823~1889)や(仏)ウィリアム・アドルフ・ブグロー(1825~1905)が君臨していた。

既にご案内したように、市民政治を標榜するナポレオン3世の時代は、美術の世界にも広く門戸を開いたから、”官展”には3000点にも及ぶ作品が集まって、当然その数に比例した落選作品が出た。当選、市民権を得た画家たちの(勘違いも含めた)クレームも同じように多数寄せられて、そこに敏感に時の指導者が反応するから、大規模な“落選展”も開催される。

そこで当時の保守的なアカデミーの不文律に反した、衝撃作エドゥアール・マネ『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)が衆目に晒されると、もちろん批判の嵐が起こるけれど、市民社会の自由な風に触れた若き画家たち(モネ、ピサロ)は、それまでの保守的な画壇への不満を一気に爆発させて、文字通りに自分たちの手で美術展を主宰する。これが、後に「第1回印象派展」と呼ばれることになる。

草上の昼食

(仏)ジョルジュ・ポンピドゥー大統領の肝いりで1977年に設立された、パリ4区にある「ポンピドゥー芸術文化センター」のディレクターは、現代アートのスタートは、ピカソ『アヴィニヨンの娘たち』(1907年)に先駆けて、この『草上の昼食』だと言っていたし、1999年発行LIFE誌(米)は「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」に日本人としても19世紀の画家としても唯一(日)葛飾北斎(1760~1849)を選んでいるけれど(20世紀で唯一選ばれているのはピカソ)、へそ曲がりな“美術の皮膚”的には“現代アート”の一番の立役者は、ナポレオン3世じゃないかと思う。

彼がうっかり“落選展”の開催を指示しなければ『草上の昼食』は陽の目をみなかったのだから。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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