コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(77)「印象派物語~紅一点のベルト・モリゾ~」

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19世紀の終わりにはヨーロッパ中に知られた印象派は、第一次世界大戦中に戦争相手のドイツ軍兵士たちも「これが絵で観た景色なのか...」と足を止めたらしいから、作品の影響力は計り知れない。でも「美術の皮膚」は、日本人はなぜ印象派が好きなのか?の理由を求めて、作品のことは棚に上げて青春群像“印象派物語”を勝手に描く。

マネモネルノワールに続く登場人物は(丁)カミーユ・ピサロ(1830~1903)。印象派グループの中では最年長で、全8回の「印象派展」に唯一全て参加した。

年長者らしく、『モンモラシーの風景』(1876年/オルセー美術館蔵)の柔らかなタッチからも容易に想像できるように、柔和で面倒見は良かったけれど、リーダーシップに欠けていて、どっちつかずでむしろ火に油を注いだりするから、結局仲間をまとめられない。

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モンモラシーの風景 / image via Wikipedia

でも、物語の展開には欠かせない。ドガカイユボットの対立は仲裁できなかったけれど、セザンヌゴッホの面倒をよく見たから、後期印象派の誕生には貢献している。

そして、もっとも印象派らしい印象派画家と呼ばれているのが(仏)アルフレッド・シスレー(1839~1899)。

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洪水と小舟 / image via Wikipedia

『洪水と小舟』(1876年/オルセー美術館蔵)のように、最後までパリ周辺の風景画を描いたシスレーの、印象派の根底にある、市民革命の精神でもある“啓蒙主義”(=偏見のない自然の光の下で真理を探す戸外創作)に基づく態度や、古典の理想化された絵ではなく、当時の保守的な美術界では格下とみなされていた風景画や風俗画の中に、光や空気をそのまま描く愚直さは、革新を求める若いエネルギーの中で、その場に留まり続ける画風は、むしろ際立ってる。

印象派の紅一点(仏)ベルト・モリゾ(1841~1895)は、物語にロマンティックな要素を加える。“印象派の父”マネのモデルをしていたけれど、恋愛関係にあったとも云われている。

しかし、マネの弟と結婚するなんて少し複雑な女心まで邪推してしまうけれど、決してただのマドンナ役じゃなくて、19世紀の男性中心の世の中で活躍した実力派でもある。

ゆりかご
ベルト・モリゾ / 「ゆりかご

印象派に参加する前に“官展”で2回入選を果たしていて、『ゆりかご』(1872年/オルセー美術館蔵)のように、女性ならではの優しい目線で描かれた作品は、マネの恋人として語られるだけではもったいない。

モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、モリゾの5人にマネを加えた主要人物の他にも、物語を彩る脇役たちがいる。

物語の語り部でもあり、印象派の良き理解者で当時のパリで影響力のあった美術評論家(仏)テオドール・デュレ(1838~1927)が言うところの「印象派ではないが、印象派展に参加した優れた才能を持つ画家」の始めに挙げるべき画家に、(仏)エドガー・ドガ(1830~1903)がいる。

実家が裕福な銀行家で、保守的な美術界への反発から「印象派展」には参加するけれど、古典的な線描表現を重要視していて、印象派とは一線を画した。確かに“踊り子”や“馬”の一瞬の動きを捉えたデッサン力は卓越している。

ただ、彼の作品のほとんどが屋内の風景を描いているように、実は元々目を患っていて、光の下で創作することが困難だったために、戸外創作を楽しむ仲間たちへの劣等感があって、印象派の仲間に加わることを、プライドが許さなかったのかもしれない。「印象派」と呼ばれることを嫌ったのも、裏腹な思いの気がする。

実際に、印象派への執着が、同じく富裕な家に育ったカイユボットとの諍いを起こす。結果として、印象派を分裂させた張本人でもあるから、物語の中では悪役の一人に数えなければならないかもしれない。

皮肉にも、いよいよ視力が落ちた晩年に、自身でもよく見えるようにと使った強いパステルで描いた、まるで自然光を描いた印象派たちに対抗するような、当時普及し始めたガス灯の下のパリの夜の絵が僕は好きだ。

そんなドガの敵役でもある(仏)ギュスターヴ・カイユボット(1848~1894)は、ドガの実家が没落したのに比べて、アパレル会社の御曹司として少なからずの遺産を相続して、印象派たちの経済的な支援を積極的に行った。

この辺の事情も、ドガとの対立を激しくさせた要素かもしれない。ただ、ドガの写実的な描写や、鮮やかな色遣いに影響を受けたとも云われているから、僕がドラマチックに対立を演出するよりも実際には仲が良かったのかもしれないけれど。

とはいえ、第二回「印象派展」から参加して、第三回目では中心的な人物として会を仕切るけれど、ドガとの対立で結局は印象派が分裂するから、やっぱりドガと合わせてトラブル・メーカーの役回りをお願いしたい。

そんな目で観てしまうと、彼の作品自体もパリの上流階級を題材にしたものがほとんどで、代表作である『床削りの人々』(1875年/オルセー美術館蔵)は、珍しく労働する人たちを描いてるけれど、なんかドガのような皮肉でもなく、ただ眼差しが優しくない気がする...なんていうと、彼のファンからはお叱りを頂くかもしれないけれど。

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床削りの人々 / image via Wikipedia

30歳も半ばで隠居生活を始めて45歳で夭折して、元々自身の画法を突き詰めるでもなく、さらに晩年は創作もそこそこに、仲間たちの絵を買う方に回ってしまって、しかも自分の絵は売る必要もないカイユボットは、ようやく20世紀半ばになって、遺族が市場に絵を出し始めると、アメリカを中心に再評価されてきたものの、画家としての影は薄い。

せっかくフランス政府に寄贈するつもりでいた70点にも及ぶ印象派の仲間たちから買い上げたコレクションも、最初は政府に断られたりしてるから、やっぱりピントのズレた暢気なおぼっちゃまのイメージが僕には拭えない。

もちろん、時代を先読みしていたとも云えるれけど。ちなみに、今ではそれらの絵画たちは、オルセー美術館の貴重なコレクションとして飾られている。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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