コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(156)ベネツィア派~ルネサンスよりもルネサンス~

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大雑把に言えばデッサンのフィレンツェ、色彩のヴェネツィアということなのだろうけれど、勝手ながらヴェネツィアをルネサンスの亜流として語りたくないと言い張っている理由は、もちろんそれだけではない。今では当たり前になっている布製のキャンバスに油絵具で描く油彩画のスタイルも、実はベネツィアが発祥だと云われている。

モナ・リザ

建物の装飾の一部として壁に描かれたフレスコ画を除けば(伊)レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の『モナリザ』(1506年頃/ルーブル美術館)がそうであるように、15世紀までの絵画はポプラなどの板に描かれていた。ところが湿気の多い“水の都”ヴェネツィアでは板が反り返ってしまうために木枠に麻布を貼ったいわゆるキャンバスが生まれた。麻布は船の帆に使われる素材だから海洋国家ヴェネツィアならではの発明だ。

そしてフランドル(今のオランダ辺り)でヤン・ファン・エイク(1390~1441)によって完成された油絵具も、フィレンツェより早くヴェネツィアで広まったと云うのだから、教会支配の緩い土地で、いち早く油絵具が普及して、キャンバスまでも発明されたヴェネツィア絵画は、ルネサンスよりもルネサンスだと言ってしまうと過言だけれど、お叱り覚悟で言いたくなる。

もうひとつの重要なヴェネツィア派の特長は、テクニカルなだけではなくて、厳格な教会に忖度せずに描かれた艶やかな裸婦像にもあったりするから、その精神性もフィレンツェよりよほど自由だ。あの天才レオナルド・ダ・ヴィンチでさえ、教会へのアンチテーゼを表現するには、例えば『受胎告知』(1472~75年/ウフィツィ美術館)で、本来は聖母マリアに天使が手渡す百合の花にはないはずの“おしべ”が描き込まれていたり、神聖さを表す秘匿性を無視して開放的な戸外が背景になっていたりと、こっそり作品に隠すものだから、未だに“ダヴィンチ・コード”だと話題になるけれど、ヴェネツィア派に関しては隠す必要がないからあっけらかんと色っぽい裸婦像を描いてみせる。

受胎告知

とはいえ、さぞレオナルド・ダ・ヴィンチも羨ましがっただろうとまでいうと間違いなく過言だけれど、ヴェネツィアは身分を隠して分け隔てなく楽しむ“仮面舞踏会”の発祥でもあるから、遠くバチカンの厳格な支配から逃れて、フィレンツェよりもよほど自由な気風であったことは間違いないだろうと思う。

そしてヴェネツィアにも、ルネサンスの三大巨匠(レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ)に優るとも劣らない、後世に多大な影響を与える巨匠たちもいた。

前述のようにフランドル地方で普及していた油彩画をイタリアで最も早く取り入れたと云われているのが、ヴェネツィア絵画の創始者と云われているジョヴァンニ・ベッリーニ(1430~1516)だ。大工房を構えた画家一族のひとりで、父ヤーコポ(1396~1470)、兄ジェンティーレ(1429~1507)と共に構えた一族の大工房には、北方ネサンス最大の巨匠(独)デューラー(1471~1528)までもが学びに来たと云われているから、ヴェネツィアがルネサンスの中心じゃないのかと思ってしまうのは、少し大げさかもしれないけれど。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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