コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(114)「ロートレック~小さき偉大な芸術家~」

今までの連載はコチラから

娼館やキャバレーに入り浸って、退廃的な暮らしの中たった36年間で人生を終えたロートレックだけれど、それが決して怠惰なのではなく、自分の存在の耐えられないほどの軽さを、むしろ懸命にすり減らしていったように思えて仕方がない。

ロートレックを「ムーランルージュ」に紹介したと云われているのが、(仏)アリスティド・ブリュアン(1851~1925)という当時の人気歌手だ。彼もまた、没落貴族から身を興して自らの才能で時代を生き抜いた人物で、ロートレックは彼を尊敬し、また彼もロートレックを好きだったから、10歳以上も年の離れた二人は無二の親友でもあった。

まだ名前の売れない頃のロートレックが、こちらもまだ売れていないブリュアンのやっているバーを偶然訪れて親交が始まった。自分の店の小さなステージで、パリの場末をテーマに歌うブリュアンにロートレックはすっかり魅了されて、ブリュアンも自分の店のパンフレットで、ロートレックの作品を紹介したりしていたらしい。

そんな小さな店の知る人ぞ知る歌手のブリュアンに、モンマルトルのキャバレー「アンヴァサドゥール」から出演の依頼がきたのが、ロートレックのポスター『ムーランルージュのラ・グリュ』が世に出た1年後だ。そしてこの自身の晴れの舞台の宣伝ポスターをブリュアンは意気揚々とロートレックに依頼する。

Lautrec moulin rouge la goulue1
ムーラン・ルージュのラ・グリュ / image via wikipedia

しかし、シェレのような華麗なポスターを期待していた劇場の支配人は、出来上がった『アンバサドールのアリスティード・ブリュアン』(1892年)を見て難色を示し、これに対してブリュアンは「このポスターでないと出演しない」とまで啖呵を切ったから、めでたく花の都パリに暮らす市民たちのスノッブ(貴族気取り)で鼻持ちならない振る舞いに嫌気がさしたデカダンス(退廃的)な男たちの友情が作品として結実した。

Henri de Toulouse Lautrec 002
アンバサドールのアリスティード・ブリュアン / image via wikipedia

しかし、ロートレックの退廃的な生き様の一方で、彼の作品自体には19世紀パリのデカダンスを代表する象徴主義への傾倒は見られない。幸福と不安を二極化させて表現するのではなく、むしろ退廃の中に混在している少しの希望や安らぎを見出して、見せかけの幸福や華やかさではなく、人間が生きるということの逞しさや美しさを描いてみせたに違いない。

貴族の後継ぎとして生れて、不慮の怪我で障害を負ってしまい、思うに任せない人生そのものを、それでも力強く生きようとしたロートレックだからこそ描けた、19世紀末を代表する人間賛歌ではないかというと過言かもしれないけれど。

ロートレックの今際の言葉は「バカな歳よりめ!」だったと云われている。もちろんこれが誰を指すのといえば、自身を見捨てた父親アルフォンス・ロートレックに間違いはない。スノッブどころか本当の貴族だったアルフォンスは、息子の生活態度や画業を一切認めずに否定していたのだから、意趣遺恨が込められた最期の言葉だったのかもしれない。

ただアルフォンスも、態度こそ突き放してはいたものの、ロートレックが生活に困らないようにと経済的な支援を十分に施してはいたのだから、彼は彼で、自分勝手ではあるけれど、後継ぎに恵まれなかった思うに任せない人生の哀しみを背負っていたのだろうし、ロートレックもまたその哀しみを理解しながらも、どうにもできないジレンマの中を生きたのだから、それを文字通りただの怨嗟だとは受け取ることができない。

みんな優しくて、みんな自分勝手で、傷つけ合って、庇い合って生きていく、人間の哀しさが込められた一言だったと思うのは少し感傷的なのかもしれないけれど、だからこそ人々はロートレックを少なからずの愛情を持って「小さき偉大な芸術家」と呼んだのだと思う。

同時代に、アール・ヌーヴォーの画家として、ロートレックと人気を二分していたミュシャのファースト・ネームが、皮肉にも父親と同じアルフォンスであったのは、もちろん偶然だろうけれど皮肉なことだ。その名前がロートレックの耳に届かなかったわけはないし、聴こえてきた時の彼の心情さえ気になってしまうくらい、ロートレック贔屓なのはご容赦頂きたい。

(了)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」