コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(101)「世紀末芸術~象徴主義と耽美主義~」

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混沌とした“世紀末芸術”を代表する“象徴主義”は、イギリスに端を発し、(仏)ギュスタヴ・モロー(1826~1898)によって可視化され、ギリシア生まれの詩人(仏)ジャン・モレアスの“象徴主義宣言(1886年)”によってフランスで結実するけれど、美術における重要な拠点のひとつは、北方フランドル絵画の歴史を脈々と受け継いだベルギーにあった。

GustaveMoreau
ギュスタヴ・モロー「出現」/ image via wikipedia

他のヨーロッパ諸国と同様に、保守的画壇に反発して、美術評論家でもあり企業家でもある(白)オクターヴ・モース(1856~1919)を中心に、ベルギー象徴主義を代表する(白)フェルナン・クノップフ(1858~1921)ら芸術家たち20人が集まって1883年に発足した「20人展(レ・ヴァン)」は、その後「自由美学展」と名前を変えて、文字通り“自由”な創作活動の舞台となった。

美術と音楽、文学との結びつきを強く意識して演奏会や講演も交え10年以上も毎年開催された「20人展」は、国内外に広く門戸を開放したから、参加した印象派や後期印象派たちと切磋琢磨しながら“象徴主義”の萌芽を、確実に育んだ。

ゲストに呼ばれた画家たちは

と、錚々たるメンバーだ。

“世紀末芸術”のひとつの特徴が、目に見えない人間の感情を描こうとした“象徴主義”だとするならば、もうひとつは社会通念に対して背徳的な“死”や“エロス”のモチーフが挙げられる。

そして、このテーマを描くための素材として神話や聖書、文学が使われたけれど、基本的には画家自身の内面に宿った感情が主体だから、古典的な美術に引用された歴史画や宗教画が、その内容に重きを置いたのとは全く違った。

極論すれば、“異形”であれば何でも良いくらいに、前述の「サロメ」と同様に、旧約聖書に出てくる屈強な敵将を色香で惑わせて殺めた「ユディト」も盛んに描かれた。

これを、“印象派”や“象徴主義”と並べて“耽美主義”と呼んで良いかどうかには自信がないけれど、こうなると絵画の価値は、そこに内包される画家の“思想”や“メッセージ”ではなくて、唯々形状と色彩の美しさにのみあるということになる。

普遍的な(時に醜さを含んだ)美しさを探求するという創作態度は、客観的にも“美しい”必要があって、鑑賞者を通して評価されるから、僕は個展のプロデュースを度々させてもらっているアーティストの木村タカヒロ氏に、一緒にやっているラジオ番組で少し意地悪な質問をした時のことを思い出した。

「依頼された作品と、自発的に描いた作品と、どちらが芸術と呼べるのですか?」

これには、僕が知り合いの画廊オーナーに「ヨーロッパでは芸術と工芸(誰かが使用するための作品)は明確に区別されている」という説明を受けたことが背景にあるのだけれど、木村タカヒロ氏は間髪を入れずに答えてくれた。

「依頼された作品よりも、魂のままに描いている方が気持ちは高揚するけれど、作品の出来不出来には関係ないし、それは観た人が決めてくれれば良いと思うんです」

彼は、お気に入りの画家でもあるエコール・ド・パリの画家(露)シャイム・スーティン(1893~1943)の肖像画を一緒に観た時にも、画家が描いた動機について、その内面的な不安感や焦燥感といった答えを求めたがる僕に

「でも、ひょっとしたら、ただ対象のフォルム(形状)が、カッコ良いって思っただけかもしれませんよ」

と、アーティストらしい目線で教えてくれた。なるほど、彼は“耽美主義”の画家であったのかもしれない。今度会ったら聞いてみようと思う。

“耽美主義”が大きな画派の流れに組み込まれないのは、表層的な“美しさ”の基準は人其々で、論じることが困難だから“画派”というよりは“風潮”として扱われがちなんだとは思うけれど、僕にとってはお叱り覚悟で“象徴主義”と並べてみると、ラファエル前派兄弟団から、オーブリー・ビアズリーまで一気通貫で腑に落ちる。ジョン・ラスキンや、オスカー・ワイルド、シャルル・ボードレールさえもだ。“象徴主義”との関連で語られる彼らへの違和感が払拭される。

とはいえ“美しさ”は主観的なことだから、美術評論を加えることは難しい。僕でさえ「好きな絵が一枚でも増える幸福」を求めて、その入口としての「美術の皮膚」で、あれこれと理屈を捏ねてはいるけけれど、実は直観的に好きと嫌いで絵を観る方が清々しいのも本当だ。でも、好きな絵だけを挙げたら10枚くらいしかないからコラムが続かない...

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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