コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(139)ゴッホとゴーギャン~泡沫の栄光~

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娘の死による絶望の中で描いたかどうかは別にしても『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』(1898年頃/ボストン美術館)の評価が変わるものではないことは、言い訳のように再三繰り返している“作品こそが評価されるべきで作者の人生は関係ない”ということでご理解いただきたい。

我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか

もちろん、人気商売であればその限りではないから、本人の自尊心は別にしても、ゴーギャンがアーティストであるという前提でのことだけれど。僕があくまでも懐疑的なのは、作品と画家の人生を過剰に結び付けて神格化しようとする芸術原理主義についてだ。

とはいえゴーギャン本人が自ら傑作と認めた『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』(1898年頃/ボストン美術館)も、セザンヌに「中国の切り絵」と酷評された時よりも好意的に評価されたものの、画商は売るのに苦労したらしい。結局2,500フランで取引が成立してゴーギャンの手元にもまとまったお金が入った。

しかもその時には、それまでゴーギャンの作品を仲介する画商が亡くなったいて、パリの画商と直接取引で毎月300フランの前金を手に入れていたというのだから、弟テオに頼りっきりだったゴッホに比べて、はるかに口が達者で交渉上手だということだろう。

2,500フランで売れたといっても現在の仏フランは18円程度なので、たった45,000円程度ということなのだけれど、当時の価値でどれくらいなのかはもう勝手に計算するしかない。19世紀後半に完全金本位制に移行した1仏フランは、金9/31gと同等ということらしいから、現在の金1gが6,500円くらいだとして、1,887円ということになる。

そうなると2015年に300億円以上で売れたとされている『いつ結婚するの』(1892年/カタール王室?)に比べたらお買い得ではあるものの4,717,500円では売れたことになる。そしてその計算だと、ゴーギャンが毎月もらっていた前金の300フランは566,100円ということになるから、当たらずしも遠からずな気がする。

Paulgogan
「いつ結婚するの」/ image via wikipedia

小銭を手に入れた途端にゴーギャンは優雅に暮らし出したようだから、やはり娘の死による絶望から自殺を図ったという彼の手紙の内容は、今回もやはり嘘だったと思わざるを得ない。しかし、、せっかくパリでの悪評も届かないタヒチの首都パペーテで自尊心を満足させていたゴーギャンは、恐らく地元の権力者に悪態を吐いた挙句に孤立して、ここにも居場所がなくなったようで、絵が売れるとマルキーズ諸島にあるヒバ・オア島へと移住する。

一時期は絵よりも熱心に取り組んでいた陶芸の為に良い粘土を手に入れるためだとか、更なる原始的な土地を求めたのだと云われているけれど、個人的にはやはりパリに続いてまたしても居場所がなくなったのだと思う。ヒバ・オア島はパペーテと同様に西欧化によってまったく原始的な土地ではなかったからだ。

ヒバ・オア島に着いたゴーギャンは、さっそく地元のカトリック司教に上手く取り入って、西欧化された町の中心部に土地を買い取るとアトリエ兼住居を建てた。そしてまたしても14歳の少女を妻にして、料理人と2人の召使を雇い、ペットまで飼いだすと、大物気取りで暮らし、身勝手に振舞いだす。

欲しいものを手に入れた途端に手の平を返すのは、もはやゴーギャンにとっては日常茶飯事だから驚かないけれど、まるで“Adieu paniers, vendanges sont faites.”(恩を仇で返す)が彼の信条なのかもしれないとさえ思うほどの傲岸不遜ぶりも健在だ。

カトリック教会から譲ってもらった土地に建てたアトリエ兼住居には、あろうことか「快楽の館」と名前を付けて、壁一面に女性の裸の写真を貼って地元住民に見せびらかしただけではなく、14歳の妻に病状の悪化した自身の看護をさせるために、彼女が学校に行かないように「ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がない」と声高に叫ぶものだから、島の少女たちの多くが学校に通わなくなってしまった。もちろんカトリック司教に責められると、腹いせに司教をモデルにした彫刻『好色親爺』(1902年/ワシントン・ナショナル・ギャラリー)まで作るものだから、もはやここにも居場所がなくなるのは当然だ。

900px Paul Gauguin Père Paillard NGA 1963 10 238
好色親爺」/ image via wikipedia

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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