コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(61)「今こそジャポニスムを考えてみる~ヨーロッパで花開いた日本の時代~」

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日本の伝統文化への高い興味で日本を訪れるイギリス人観光客の特徴として、7割が男性で他のヨーロッパ諸国と比べるとビジネス目的が多いらしいから、物見遊山というよりやっぱり“研究”に来ているんじゃないかとますます思える。

元々日本の歴史についての関心が高くて、訪日の目的も日本の文化の体験が主だという話も聞くから、長期滞在するのも納得できる。実際に、EUから離脱したイギリスは円高ポンド安のはずで、明確な目的がない限りそれほど訪日のモチベーションが高いとは思えない。

そんなイギリスに150年くらい先んじて日本に興味を持っていた国がある。19世紀のフランス・パリだ。もっとも今ほど交通機関も発達していなかったから、実際にフランス人が大挙して日本を訪れたわけじゃないし、インターネットもないから日本の子細な情報が届いたわけじゃない。

たった“浮世絵”が芸術の都パリに衝撃を走らせて、そこから日本の美意識を感じ取ったフランスを代表する画家たちを心酔させた。19世紀以降のフランスを席巻する“ジャポニスム”だ。

今でも、パリ18区の北サントゥワン市に3000軒以上の店が並ぶ「クリニャンクールの蚤の市」には、日本の骨董品を専門で扱うお店があって、店先には江戸時代の「狩野派の錦絵」や「漆塗りの家具」が並ぶ。

1859年に日本が開国して本格的な貿易が始まると、生糸やお茶と共に工芸品が海を渡ってヨーロッパに渡る。すると四季折々の草花を散りばめた装飾に宿る「自然を愛でる日本の美意識」にパリの人々は魅了された。中でもとりわけ磁器の人気は高くて、古伊万里の注文が殺到する。

有田焼の窯元の友人は「“伊万里”は出荷した港の名前だから“有田焼”の名前をきちんと世界に知らしめたいんです」と語っていたけれど、当時のパリでは同じ港から出荷された“肥前焼”で総称される“波佐見焼”と“三川内焼”との区別はついていなかったと思う。

さらに、芸術の都を震撼させる衝撃が、伊万里の“港”から出荷された“有田焼”をはじめとする磁器の詰まった箱を開梱した時に走る。何気なく目にした緩衝材代わりの“浮世絵”の斬新さに目を奪われた一部の画家たちの噂は、瞬く間にパリ中に広まった。

今までの西洋美術にはなかった「陰影がないシンプルな線描で忠実に描かれた躍動的な動き」が、新しい芸術を模索していた若き才能たちの琴線に触れた。

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その最初の一枚と云われている『北斎漫画 相撲図』が後にどれほどの影響を与えたのかは、1999年発行LIFE誌(米)で「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」に日本人として唯一、19世紀以降の画家としてはピカソと並んで二人だけに、北斎が選ばれていることが教えてくれている。

ところが、美術アカデミーの“師匠”は「『北斎漫画』は偶然見つかった訳じゃない」っておっしゃる。その仮説が本当かどうかは確認できないけれど、面白いエピソードには事欠かない北斎の人柄を考えると、信じてみたい気もする。しかも“師匠”に口答えするのはなかなか難しい。

“師匠”によると、北斎は交流のあったドイツ人医師のシーボルトを使って意図的に緩衝材として自分の作品を使わせたのだそうだ。シーボルトの雇い主はオランダで、医師として来日したけれど日本の文化を調査する任務を与えられていたことは記録にも残ってる。

特に植物に詳しくて、1828年に禁制の日本地図を持ち出そうとして国外追放になったけれど、一方で豊富な種類がある日本の植物をせっせとオランダに送っていたから、今ではオランダの花卉市場でのシェアは60%以上にもなっていて、日本で菊の花を買ってもオランダ経由だったりする場合もあるらしい。

シーボルトが所属していた世界初の株式会社「オランダ東インド会社」は、アジアの貿易を独占して海洋国家オランダの繁栄を支えていた時と比べて衰退していたとはいえ、パリに届いた磁器に関わっていた可能性は決して低くはないはずだ。

しかも、貪欲に画法を追求して油絵まで描きながら、自分の画才に矜持をもっていた北斎が、自分の作品を異国の人たちに見せつけてやろうとしても、そんなに不思議な話じゃない気がする。

もしそうだとしたならば、没後20年の時を経てパリの街を席巻した“浮世絵ブーム”は、北斎の仕掛けた時間も海も越えた“一大プロモーション”の成果だったのかもしれない。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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