コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(47)「盗難絵画⑤~不死鳥の代わりに灰の中から現れたフェルメール~」

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寡作の画家(蘭)ヤン・フェルメール(1632~1675)については謎めいたエピソードが多くて、そのこともまた人気に拍車をかけている。その一つが、作品にふんだんに使われている「フェルメール・ブルー」と呼ばれる青色だ。

この顔料は、現在のアフガニスタンが原産地の「ラピスラズリ」というとても高価な鉱石を原料としていて、著名な古典画家たちでさえ、マリアの着衣に限定して使っていたと云われている貴重なものだ。

今や大人気のフェルメールでも、当時は(歴史的付加価値のない)常識的な価格で作品が売買されていたであろうから、寡作の画家がこんな高価な顔料を使えたというのは不思議だけれど、それには地元(蘭)デルフトのパトロンの存在や、裕福な妻の実家の援助に加えて、父親から継いだ宿屋「フライング・フォックス」を兼業していたことが、経済的背景だったと云われている。

多くの画家たちが画題を求めて各国を旅するのに比べて、フェルメールが生涯のほとんどをデルフトで過ごしたのも、宿屋の経営との兼務に忙しかったとすれば納得できるし、時は大航海時代の港町デルフトの宿代替わりに、香辛料等を買い付けて東方から帰ってきた船乗りたちから「ラピスラズリ」を分けてもらっていたと想像したら、貴重な顔料の出所として腑に落ちる。

ただ、そのことで当時の画家仲間たちからは(恵まれた環境への妬みも含めて)片手間で絵を描いている趣味人だとみなされていたんじゃないかと、僕の美術の師匠でもある美術アカデミーの理事が言っていた。

取り持ち女

だから『取り持ち女』(アルテ・マイスター絵画館/1656年)の画中に宿屋を継いだばかりの自身を登場させる一方で、『絵画芸術』(ウィーン美術史美術館/1666年頃)では、創作に取り組む自身の姿を描き込むことで、画家としての自己主張をしているのではないかと教えてくれた。

とはいえ、既に当時からデルフトでのフェルメールの人気は高かったようで、バロック期を代表する(蘭)レンブラント・ファン・レイン(1606~1669)の最も有望な弟子の一人で、フェルメールが師事したと云われている(蘭)カレル・ファブリティウス(1622~1654)が弾薬庫の爆発事故に巻き込まれて夭折すると、「その栄光の頂で、彼(ファブリティウス)はこの世を去り、しかし幸いなことに灰の中からフェルメールが現れて、その跡を引き継いだ」という詩が読まれている。

しかし、18世紀に入るとフェルメールの名前は一度忘れ去られる。17世紀末に起こったイギリスとの戦争でオランダ自体が芸術どころでなくなったこと、さらにはオランダ絵画の持つ大衆性が、ヨーロッパ各国で創立された美術アカデミーの(オランダで盛んに描かれていた風俗画や風景画を宗教画や歴史画に比べて下だとみなす)規範から外れてしまったことに原因があると思われる。特にフェルメールについては、寡作の上にその作品が公開されない個人のコレクションだったために尚更だった。

再び、フェルメールが名声を取り戻すのは20世紀になってからのことで、作品が徐々に美術館に飾られるようになると、フランスを代表する作家マルセル・プルーストは『デルフト眺望』(マウリッツハイス美術館/1660~1661頃)を観て「世界で最も美しい絵画」だと評し、著作『失われた時を求めて』にも登場させている。

Shinjyunokubi
「真珠の耳飾りの少女」 / image via wikipedia

余談ながら、フェルメールは『真珠の耳飾りの少女』(マウリッツハイス美術館/1665年頃)に代表されるように、愛くるしい女性の作品が有名だけれど、個人的には、オランダの正式名称でもあるネーデルラント(低地の国)の空気を、広い空と共に描いている『デルフト眺望』(マウリッツハイス美術館蔵/1660~1661)こそが代表作だと思う。

さて、20世紀に復権したフェルメールだけれど、それと同時に彼の作品は、その希少性と人気の高さから度々盗難に遭う。そして皮肉にも、そのたびに作品に隠された謎が解き明かされていくのだから、ますます人気に拍車がかかることになる。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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