コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(109)「ロートレック~新しくて古い花の都~」

今までの連載はコチラから

「ハデでキレイでカッコイイ」アーティストの木村タカヒロさんが選んだ作品が、ロートレックだったというのが意外だったとは言ったものの、きっとそれはロートレック違いなんだと思っていた。

「違う」といっても彼も僕も同じ(仏)アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファという、いかにも貴族出身の名前を持つ夭折の画家を指してはいるのだけれど、きっと木村さんと僕とでは、画家に対するイメージが180度違うんだろうって確信していた。

だからむしろ僕は、それまでただの商業画として軽く見られていたポスター画を芸術の域にまで高めたことで圧倒的に有名なロートレックの、その功績に隠れがちな素敵な油彩画の数々を、彼に紹介したくて仕方がなかった。

ちなみにロートレックは、当時のフランスで3本の指に入るお金持ちの家に生まれて、その出自は彼の画家人生に大きな影響を与えている。

オスマン知事によって、ナポレオン3世の威光を高め、過激に走ったパリのコミューンの撲滅を目的とした、フランス最大の都市改造計画によって生まれ変わったパリの街に、高さが2m近くもある、ロートレックのポスター画第1作目にして代表作の『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』(1892年)が貼られると、一気に華やいだ近代的な都市は、花の都と呼ばれるようになった。

Lautrec moulin rouge la goulue1
ムーラン・ルージュのラ・グリュ / image via wikipedia

このオスマン計画と呼ばれる一連の都市改造は、ヴィクトル・ユーゴー「レ・ミゼラブル」(1862年)に描かれた古き良き街並みを失い、整備され過ぎた交通がプロイセン軍の侵攻を容易にさせて普仏戦争を敗戦に導いたのは皮肉なことだけれども、それ以前と以後のパリのイメージはまったく違う。今や、パリの街が魅力的なのは、ローマやミラノの古さと、ニューヨークの新しさのちょうど真ん中くらい、古くて新しい街だからかもしれないと勝手に思う。

そんな当時の近代都市に、今風の言い方ならば「コンテンツ」としてポスター画が登場した。少し遅れて都市化が進んだウィーンの街の壁にクリムトが、ニューヨークのソーホー地区の壁に(こっちは勝手な落書だけれど)バスキアが絵を描いて成功していったのも、無機質な街に人間らしさを吹き込んだという意味では、少し似ている気がしないでもない。

『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』の2年後には、19世紀フランスを代表する大女優にして最初の国際的女優と云われているサラ・ベルナールが演じた『ジスモンダ』(1894年)のポスターが街を飾ると、いよいよ花の都パリが輝きを増す。

Alfons Mucha 1894 Gismonda
ジスモンダ / image via wikipedia

作者はやはりアール・ヌーヴォーを代表するポスター画家(捷)アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)だ。ミュシャのポスターがパリの中心にあった国立劇場「オデオン座」の演劇のために描かれたのに対して、ロートレックのポスターは、当時それほどキレイとはいえない繁華街であったモンマルトルにあるキャバレー「ムーラン・ルージュ」のために描かれたのは象徴的だけれど、ミュシャとロートレックには大きな違いがある。

後に、自身の出自でもあるスラブ民族の伝説を描いた20連作にして5mを超える大作『スラブ叙事詩』(1910~1920年)を描いたミュシャだけれど、美術界での評価は「ポスター画家が油彩画を描いた」という文脈になっている。一方のロートレックは「画家がポスター画を描いた」と云われている。どっちが偉いとか凄いとかいう話じゃなくて、どうやらそうらしい。

実際ロートレックは1888年に、モネセザンヌゴッホらが招待されているベルギーの印象派展ともいえる「20人展(レ・ヴァン)」に参加しているし、19世紀の作品を収蔵するために造られたオルセー美術館ができる前のルーブル美術館には、ロートレックの絵はあっても、ミュシャの作品は収蔵されていない。

ちなみに、2017年には世界で初めて『スラブ叙事詩』の全20作品が日本で展示されているけれど、ミュシャの孫が国外での展示に対してクレームをつけたらしいから、二度とチェコから運び出されることはないと思われる。

だから観賞する機会のあった人は貴重な体験だったかもしれない。ただ、お叱り覚悟で言えばやっぱりミュシャは、グラフィック・デザイナーとしての作品の方が素晴らしい。

実際に、1960年代のアメリカでヒッピーたちによって自然への回帰が謳われるとアール・ヌーヴォーの象徴として再ブームが訪れたから、美術界の評価とは別に、デザインの世界では第1人者として割と最近になってから神格化されている。ただ、そのポスターさえ(英)オーブリー・ビアズリー(1872~1898)の真似だと云われているなんて、口が裂けたら言えない。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」