コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(118)「ハプスブルグ~ゲルマン民族の雄~」

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北方ルネサンスを指す時に、イタリア以外のヨーロッパを全ての地域を指すこともあるけれど、特に今のフランス、オランダ、ベルギーに相当するフランドル地方と、今のドイツあたりを中心にした北ヨーロッパで盛んだった。フランドルの名前は、美術の話でしか聞いたことがないけれど、英語読みの“フランダース”となれば、僕らの世代にはアニメ「フランダースの犬」で馴染みが深い。

画家を目指す貧しい少年ネロと、その愛犬パトラッシュが、憧れの絵を観上げて息を引き取るラスト・シーンでは、(フランドル)ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)『キリスト昇架』(1610~1611/アントウェルペン聖母大聖堂)が登場している。

Peter Paul Rubens De kruisoprichting
「キリスト昇架」/ image via wikipedia

この最終回は視聴率が30%を超えたとも云われているから、アントウェルペンの聖母大聖堂には、この絵を一目観ようと大勢の日本人観光客が今でも訪れるらしいけれど、地元のベルギー人が不思議がる理由は、「フランダースの犬」の舞台こそベルギーだけれど、原作はイギリスの児童書だからだ。

フランドル地方は元々フランドル伯爵の領地(864~1795年)だったところで、さらに遡れば、西フランク王国だった地域を指すらしい。もっと遡ると中フランク王国だったから、東西に分かれたフランク王国の真ん中で、緩衝地域として絶妙なバランスで独立していた。それがまさに今のフランス、オランダ、ベルギーに相当するフランドル地方だ。

ついでに言えば、後に東フランクが神聖ローマ帝国(ドイツの前身)、西フランクはフランス王国(フランスの前身)、中フランクはイタリア王国(イタリアの前身)になる訳だから、まさに、18世紀末のフランス革命でフランドル伯爵の称号は廃止されるけれど、中世ヨーロッパの中心だったと言っても過言じゃない。

もっとついでに言えば、このフランク人が巨大な王国を築き上げるきっかけは、ローマ帝国がヨーロッパの覇権を手にしていた時に、ライン川中域に住んでいたゲルマン系のフランク人の武力を買って兵士として雇ったことにある。

今でも気取らない人を“フランク”と呼ぶけれど、この粗野で気取らない人懐っこいフランク人が語源だと云われている。人懐っこい野蛮人はちょっと怖いけれど、案の定、西ローマ帝国は事実上、軒先を貸したフランク人に母屋を奪われて滅ぼされるから、僕のイメージはそんなに間違っていないと思う。

でも、粗野で気取らない勇猛なフランク人にも権威が必要だったようで、彼らはカトリック教会の威厳を借りてヨーロッパのほとんどを支配下に置くから、今や10億人にも及ぶ信者の獲得に、一役も二役も買っているといっても過言じゃないだろう。

ただ、教会からの人間性の解放と、ギリシア・ローマ時代への回帰を謳った15世紀ルネサンス期の人々が、ゲルマン人が支配していた時代を“暗黒の中世”と呼び、その時代の文明を“ゴシック(ゴート人の)”と呼んで、無粋なものだと揶揄したのは、僕がルネサンス贔屓であることを差し引いても、なんとなく筋が通っている気がしないでもない。

イギリスの貴族のほとんどが20世紀になってから始まっているのに比べて、ヨーロッパの貴族の中でも伝統を持った名門にゲルマン系が多いのは、こういう歴史があるからなんだろう。とはいえ、ルネサンスのラテン系イタリア人からは揶揄されたけれど、ゲルマン人たちはアルプスの向こう側で、ルネサンスの良いところは吸収しながらも自分たちの芸術を大事に育んでいた。

二十八歳の自画像

例えば“聖ルカ兄弟団”がお手本にしていた北方ルネサンスを代表する画家(独)アルブレヒト・デューラー(1471~1528)の描いた『28歳の自画像』(1500年/アルテ・ピナコテーク)が所蔵されているアルテ・ピナコテークは、12世紀から続く名門バイエルン王家(ヴィッテルスバッハ家/1180年~)のコレクションを公開するために、1836年にミュンヘンに開設された。このバイエルン家は結構好戦的な方々であったようで、内紛を繰り返すから同じゲルマン系のハプスブルグ家とかの後塵を拝していた。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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