コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(167)マネの黒とマネの闇~父である前に画家~

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(仏)エドゥアール・マネ(1832~1883)は、「印象派の父」と呼ばれている。大まかに言えば、若い印象派の画家たちを経済的にも助けながら自分は印象派には参加せず、旧態依然とした国が主催の官展(サロン)に、あくまで革新的な作品で挑み続けた画家だと云いうことは、今さら僕が言うまでもない周知の事実として万人が認めるところだろう。もちろんそれに異論があるわけではない。ないけれど、それだけでマネが語られることには、大いに不満がある。

自分の父親を考えてみても、優しいとか寡黙だとかは覚えていても、決して彼が経験した哀しい恋のことだとか、人生に思い悩んでいたこととか、僕の思い出には1ページも書かれていない。古いアルバムの中の写真を見て、僕が勝手に物語を想像したとしても、生前の本人から聞いたわけではないので、そんなことがあったのかどうかも知らない。当たり前のことだけれど、“父”も僕と同じ人間であったし、僕の“父”であっただけではない。

マネも「印象派の父」である以前に、一人の画家であったのだから、およそ“父”のイメージとはかけ離れて、ゴッホのように悩み、ルノワールのように何かに憧れ、ゴーギャンのように欲に駆られていたはずだ。でも、やはり“父”のイメージが先行してしまう。

人は他者のイメージの中で生きるものだから、若い画家たちに慕われたマネも、彼らの求める存在でいようとしたのだろうから、それはそれで不本意でもないのだろうけれど、画家マネの作品や人間マネの足跡がぼやけてしまっているのも事実だ。

(仏)テオドール・デュレ(1838~1927)「印象派の画家たちの歴史」(1906年)によれば、印象派の画家というのは、モネルノワールシスレーピサロモリゾの5人だそうだけれど、実際に「印象派展」に参加した画家は60人以上もいるのだから、その“父”と呼ばれるのは、いくらマネでも荷が重い決まっていると僕は勝手に思っている。

Les Demoiselles d Avignon
アヴィニヨンの娘たち」 / image via wikipedia

むしろ本人は画家として誰よりも認められたいと思っていたはずなのに少し気の毒だ。何を描くかではなく描くこと自体に意味を持たせたモダンアートの夜明けを告げた作品は(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)『アヴィニョンの娘たち』(1907年/ニューヨーク近代美術館)だとも云われているけれど、(仏)ポンピドー・センターのディレクターによるとマネ『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)だと言う。

草上の昼食

ただ、フランスの近現代芸術の殿堂の身贔屓だけではないとしても、それほど有名な意見でもない。しかも、マネの代表作と云えば前述の『草上の昼食』と『オランピア』(1863年/オルセー美術館)なのだから、画家マネを語るには、あまりにも部分的で、彼の挑戦のとば口でしかない。

オランピア

とはいえ僕が最初にマネに抱いた感想は、画風がバラバラで創作に打ち込むというよりも、他の目的(例えば画法の研究とか)があるのではないか?だった。実際に、「印象派の父」としての知名度 に比べると、マネの作品は前述の2作品に加えて、学校の美術の教科書に載っていた『笛を吹く少年』(1866年/オルセー美術館)くらいかもしれないから、少し寂しい。

笛を吹く少年

他の同時代の画家は、例えば「水の画家」モネ、「幸福の画家」ルノワール、「踊り子の画家」エドガー・ドガのように〇〇の画家といったキャッチ・フレーズがあるのだけれど、マネの場合はやはり「印象派の父」マネだろう。

しかし、マネの話ではなくて印象派の話だ。もうひとつ「黒の」マネというのを聞いたことがあるけれど、これもあまり有名ではない。もしかしたら「印象派」の画家たちが明るい表現をするために黒色をあまり使わなかったことに比べての話かもしれない。

マネは黒を使いたいから「印象派」参加しなかったという人もいるくらいだけれど、僕は他に理由があったのだと思う。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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