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【コラム】美術の皮膚(81)「印象派物語~間違いではなくたったの違い~」

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第1回、第2回のお世辞にも成功とはいえない結果を受けても、まだ画家たちのココロは折れない。パリでは「仏の顔も三度まで」とは言わないだろうけれど、「Une fois n'est pas coutume.」って、何度も同じ失敗を繰り返せば叱られる。仏さまだって三度も顔を撫でられれば怒り出すけれど、パリには仏さまは一人じゃなかった。

今度は画家でもあり画商でもあった富裕層のカイユボットが中心になって第2回目の翌年1877年の第3回を仕切り出す。同じく実家が富裕層だったはずのドガは、父親の死亡によって困窮することになるから、カイユボットは経済的な救世主だった。

そして、第3回目で画家たちは、いよいよ“攻め”に出る。あえて蔑称だったはずの“印象派”を前面に出して「印象派画家たちの展覧会」と銘打ったのだ。これには眼を患っていて陽光の下で描けないドガが、戸外での創作をイメージさせる「印象派」の名前に反発したけれど、ピサロをはじめとする画家たちの意見が勝って予定通り「印象派画家たちの展覧会」が開催された。

しかし、今後の展開に遺恨を遺しそうな不穏な空気が流れ始める。ただ、印象派の活動に賛同する美術評論家や収集家も少しずつ現れ始めるから、この時のドガの哀しき我儘は、やはり道理に勝てない無理だったのかもしれない。

全8回の中でも、最も評価が高い“第3回印象派展”には、ルノワールの代表作のひとつ『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年/オルセー美術館)が出品された。

ムーラン・ド・ラ・ギャレット

第3回(1877年4月4日~30日)

モネ
ルノワール
ピサロ
シスレー
モリゾ
ドガ
カイユボット
セザンヌ
アルマン・ギヨマン
等18名

印象派の自由闊達な活動は、当時のライフスタイルとも同調して、少しずつ認められてきたものの、経済的成功を彼らが受けることはなかった。“官展”で入賞しなければ“画家”として認められない風潮は、自由の街パリでも依然として残っていて、“印象派の父”として幾度となく出品の依頼を受けていたマネでさえ「サロン(官展)こそが真の戦場だ」と言って断っていたのだから、現実は厳しい。

それにしても今では“印象派の父”と呼ばれるマネの態度は、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすというよりは、少し他人行儀だ。もっともマネにしてみれば、勝手に祀り上げられて少々迷惑だったのかもしれないけれど。

そんな中で、第4回は2年後の1879年に開催される。しかし、不穏な空気が現実のものになる。画法でさえ変化、革新していくのだから、人の想いなど千々に乱れて当たり前で、留めておくためにルールを作るのだけれど、そのルール自体について意見が割れた。

せっかく「印象派」に陽の目が当たりそうだったのに、グループ解散の危機だ。印象派ではないと自負していながら印象派を壊した男として名を遺すドガの登場だ。

既に、第3回「印象派展」の開催時に、火種は燻っていた。鮮やかな色彩がフォービズム(野獣派)に影響を与えたことで知られていて、リトグラフ(版画)画家としても有名な(仏)アルマン・ギヨマン(1841~1927)の、その印象派らしくない“画風”を理由に、モネとドガが「印象派展」への参加に異論を唱えた。

これに、以前からギヨマンと懇意で、少なからず影響さえ受けていたセザンヌピサロが擁護に回って、ギヨマンは参加した。

しかし、第4回が開催される前年の1878年に、現実主義のルノワールが「食べるために」“官展”に出品してしまうと、ドガが猛反発して「“官展”に出品した画家は仲間の資格がない」とぶち上げた。

“官展”への対抗が主旨の「印象派」だから正論ではあるものの、ドガは経済的に余裕があったから、理想主義と言うより少し自分勝手と言えないこともない。すると、ルノワールに続いて、背に腹は代えられないシスレーとセザンヌが離脱してしまう。自由に絵を描くということは“官展”への出品さえ自由なんだと拡大解釈できないわけでもないから、これもまた正論だ。

集団は外からの圧力には強いけれど、中からは驚くほど脆く壊れる。印象派というステージを、絵を売るための場として捉えるか、純粋な美術運動の場として捉えるかで意見が二分してしまえば、“総論賛成、各論反対”で議論が白熱することはあっても、総論が決まらないのだから、いよいよグループは停滞する。

最初から作品の方向性は違いながら、モネの良き理解者であり、今では印象派を代表する画家であるルノワールが離脱したのは残念なことだけれど、その後のルノワールは“官展”で活躍することになるから、本人にとっては正しい選択だったと言える。

彼の代表作である『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』(1880年/ビュールレ・コレクション)は、印象派展ではなく“官展”に飾られた。

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像

印象派と袂を分けたセザンヌは、独自の画法を追求して、後に(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)、(仏)アンリ・マチス(1869~1954)といった、20世紀の巨匠たちに多大な影響を与えて“近代絵画の父”と呼ばれることになるのだから、全ての選択に間違いはなくて、それはたったの“違い”なのだと思う。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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