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【コラム】美術の皮膚(192)マネの黒とマネの闇~モネの友情×打算~

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オランピア

以前ご紹介したように『オランピア』は1865年のサロン(官展)に入選したために衆目を集めてしまい、2年前の『草上の昼食』以上の酷評を浴びたマネは逃げるようにスペインへの傷心旅行に出かけた。

オランピア

そんなことになるとは知る前のサロンの会場で、勘違いをした友人に、描いた覚えもない2枚の海景画『オンフルールのセーヌ河口』『干潮のエーヴ岬』の出来栄えを褒められたけれど、実はアルファベット順で隣に展示されたモネの作品だった。尊大なマネは笑い飛ばすことなどできずに「自分の名前を語って名を上げようとする不届きものがいる」と激怒してモネを叱責したらしい。お世辞にもマネの名前を語っても得はないのにだ。ところがモネは身なりの整った理不尽な先輩のいう事を聞いて、以後作品へのサインには「モネ」ではなく「クロード・モネ」とフルネームで書くことを約束して、その代わりと言っては何だけれど、以後お金に困るとマネを頼って無心した。

Mouth of the Seine by Claude Monet Norton Simon Museum
『オンフルールのセーヌ河口』/image via wikipedia
Claude Monet La Pointe de la Hève at Low Tide Google Art Project
『干潮のエーヴ岬』/image via wikipedia

そんな思い出の詰まった『オランピア』がアメリカに売り飛ばされてしまうとなって、モネは周りの反対を押し切ってお金をかき集めて自分で買った。しかし、昔を思い出して自宅の壁に飾ったのではなくて、ルーブル美術館に寄贈しようとしたから、国賊クールベの代わりの「印象派の父」マネを持ち上げて「印象派」のプロモーションに使おうと思ったのではないかと思うへそ曲がりの僕は、モネとマネの友情を語る美談だとは思えない。そして、ルーブル美術館に断られて、格下のリュクサンブール美術館に20世紀になるまで飾られていたから、それが美談でも狡猾な作戦でも、モネの思惑はそんなに上手くはいかない。

とはいえ『オランピア』は18年後の1907年にはめでたくルーブル美術館に展示されることになる。現在は、19世紀以降の作品がルーブル美術館から移されてオルセー美術館に展示されているけれど、マネの評価が急上昇した訳でもなさそうだ。原則的に没後10年経たないとルーブル美術館への展示は難しかったらしいけれど、それなら19世紀のうちに飾られているはずで、ただ単にマネがフランス画壇から「認められていなかった」だけなんだと思う。

マネが認められるようになるのは「マネ生誕100周年」を祝した大回顧展がオランジュリー美術館で開催されたあたりだと思う。元々オランジュリー美術館はモネの連作『睡蓮』を飾るために友人でもあった当時のクレマンソー首相の肝煎りで建てられたものだから、開催時にモネは亡くなっていたとはいえ、モネの威光があったことは想像に難くない。巨匠となったモネが言うのだからと、世間もようやくマネを認め出したんじゃないかと思う。1907年に『オランピア』をルーブル美術館に移したのもクレマンソー首相の要請だったという話も聞いたことがあるけれど、これもモネが頼んだに違いない。

『オランピア』がルーブル美術館に飾られた1907年の2年前に、保守的なフランス画壇であのカバネルと双璧のウィリアム・アドルフ・ブグロー(1825~1905)が亡くなっている。これはもう僕の勝手な想像だけれど、カバネルの没年は1889年だから、恐らくマネの作品をルーブル美術館が受け入れることを反対していたのはブグローの方ではないかと思うのだけれど、それではマネは嫉妬の相手すら間違っていたという甚だ滑稽な話になるから思っているだけにする。

William Adolphe Bouguereau 1825 1905 The Birth of Venus 1879
ブグロー『ヴィーナス誕生』/image via wikipedia

実際に、マネの作品に高額な値が付き出すのは、没後100年を記念した大回顧展あたりで、この時には、印象派の作品が大人気で、市場からほとんどなくなってしまって、もうマネしか残っていなかった…なんていうとお叱りを受けるかもしれないので言わない。ただ、妻シュザンヌと息子レオン(戸籍上はシュザンヌの弟)に仰々しく遺産相続の遺言を遺したマネだけれど、結局絵は売れなくて遺族は経済的に困窮していたと云われている。遺族には本当に気の毒だけれど、やっぱりマネの尊大さは滑稽を極める。

そんなマネの溜飲が下がるかどうか判らないけれど、フランス美術界の中心でに君臨していたカバネルとブグローも、新しい美術の流れに抗うことはできずに、古臭い絵として20世紀になると忘れ去られることになる。マネの方はモネのお陰で細々ではあるけれど忘れ去られることもなく「印象派の父」として生き残っている。それにしても、市民革命に翻弄され歴史の闇に葬られてしまったクールベが本当に気の毒だ。

Courbet LAtelier du peintre
クールベ『画家のアトリエ』/image via wikipedia

とはいえ、20世紀末になると彼らの作品も再評価が行われて、ちょうど同じくらいの時期に作品に高額の値が付き出したマネと並んで、19世紀のフランス美術を代表する画家になっている。19世紀末のフランス美術は、画家たちが切磋琢磨しながら華やかな作品を生み出した時代なんだと思う。

(了)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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