コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(97)「世紀末芸術~戦争前夜の美術~」

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ジョン・ラスキン(1819~1900)の生きた“世紀末”は、まさに産業革命によって、人々に劇的な生活の変化が訪れていたから、同世代には、資本主義社会の行く末が「資本の最大化のために人間性が換金され消費されることになる」と警鐘を鳴らした(独)カール・マルクス(1818~1883)もいたりする。

授業で上辺だけの勉強しかしていない僕が生意気を言えば、なんとなく資本主義というものが“資本”を“神”と崇める信仰のように感じるから、マルクスが「信仰のために人間性が抑制されていた」中世に戻ろうとはせずに、あくまで科学的な解決を求めたことに納得する。

一方で、資本主義の一部分(大量生産品)に焦点を当てて、“芸術”や“工芸”について中世の一部分(手仕事)に戻ろうとしたラスキンも、方向性は違うけれど同じように資本主義社会の持つ矛盾を憂慮していたから、なかなか実を結ばない美術家たちへの支援を諦めて、晩年は親の遺産だけでなく私財を投げうって、美術に止まらず更に上位概念の“文化”を通じて社会構造の改革に臨んでいった。

ラスキンの“思想”が散った先の“塵”のひとつとしてフランスでは、従来の小説の構造を革新して20世紀を代表する文学と云われている長編小説「失われた時を求めて」(1913-1927)は、小説家が小説を書く意味を小説として創作していて、著者の(仏)マルセル・プルースト(1871~1922)は、人間の生きる意味を探求する際に「創作物よりも創作の意義」について語ったジョン・ラスキンに大きな影響を受けていると云われている。

ちなみにプルーストは、(蘭)フェルメール(1632~1675)の『デルフト眺望』を「この世で最も美しい絵画」と評していて、作品中でも「作家はこのように書かなければいけない」という形で登場させて称賛している。

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デルフト眺望/image via wikipedia

また、同時に「文学作品のすべての素材は、私の過ぎ去った生涯」だとも言っているから、ジョン・ラスキンの“思想”はプルーストを介して“世紀末芸術”を飛び越して、20世紀半ばにニュー・ヨークを美術の中心たらしめた「キャンバスは画家の描画行為の痕跡」だとする“抽象表現主義”にこそ影響を及ぼしたというと過言だけれど。

いずれにしても、イギリスを発祥とした“思想”は、少なくとも芸術の分野では、そこに根付かないから、個別の才能とは別の“集団の人格”として、きっと資本主義という巨大な潮流が、中世のキリスト教のように全てを飲み込んでしまうのかと思ってしまう。(仏)ミレー(1841~1919)の『種まく人』(1850年/ボストン美術館)に含まれた寓意「信仰という種も蒔く土地によって実を結んだり結ばなかったりする」を思い出す。

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種まく人/image via wikipedia

ただ、スポーツにおいては今日でも世界を熱狂させるサッカーやラグビー、ゴルフに至るまでがイギリス発祥だということを考えると、フランス人を“文弱”だと評する勇猛な部族のDNAなのかとも思う。彼らの文武両道の美学は、“スポーツ”と”文学”で完成されているのかもしれない。

そして、ジョン・ラスキン(1819~1900)自身も、“ザ・クリーク”を立ち上げながら、心を病んで全てを台無しにした(伊)リチャード・ダッド(1817~1886)と同様に、自ら墓穴を掘ってしまう。

あろうことか46歳の時に家庭教師をしていた16歳の少女に何度も結婚を申し込んで断られるから、教え子ミレイに妻を取られた被害者は、幼女趣味の変態扱いされる。

そして、彼女が若くして亡くなると、なんとかもう一度彼女に会いたいと願ってオカルトの研究に没頭するから、その偉業と裏腹に「伝統に異を唱える者は頭がおかしい」となる。

さらに美術の流れも、万国博覧会などの開催を通じて(決して古典を否定していない)その他ヨーロッパ諸国の文化が流入するから、(英)ターナー(1775~1851)を救い、“ラファエル前派兄弟団”に陽の目を当てたラスキンの影響力も凋落の運命を辿る。

保守的だった美術アカデミーも(英)フレデリック・レイトン(1830~1896)『フレイミング・ジューン』(1895年)のように、ラスキンの意図しない方向への変化が見られる。

Flaming June by Frederic Lord Leighton
フレイミング・ジューン/image via wikipedia

しかも、新進気鋭の画家(米)ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834~1903)の『黒と金色のノクターン』(1875年/デトロイト美術館)を理解できずに酷評してしまい、彼に名誉棄損だと訴えられて敗訴するどころか「頭がおかしい」ことを理由に軽微な罪にしか問われないから、美術評論家としての名声は地に落ちた。

James Abbot McNeill Whistler
黒と金色のノクターン/image via wikipedia

辛うじて、イギリス国内での社会活動家としての名声は保たれるけれど、“塵”の元は粉々に砕けたから、ラスキンは“塵”に比べて悲しいくらいに知名度が低いのだろう。

一方で、ラスキンの“思想”から逆方向に散った“塵”の「自然に忠実でない」方の美術として、“ラファエル前派兄弟団”のロックン・ロールなスタイルに触発された“象徴主義”も、イギリスを発祥としている。「パクス・ブリタニカ(イギリスによる世界平和)」とまで呼ばれる大英帝国の繁栄の裏で、いつの時代もそうであるように芸術は、来るべき戦争の世紀をまるで予言するように、依然としてイギリスに留まり続けているということだ。

その爆発寸前のマグマのありかを根拠にして、勝者の書いた歴史では、ドイツ独りを悪者にして終わった大戦の始まりも、イギリスにあるとするのは過言かもしれないけれど。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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