コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(122)「ハプスブルグ~スペイン絵画黄金時代~」

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184年も続いたのだから“わずか”と言って良いのかどうか判らないけれど、世界史上5番目の領土を誇った絶頂期を考えるとやはり“わずか”5代で終わってしまったと言いたくなる。まるで線香花火が落ちる直前のようなその最期の煌めきが、絵画黄金時代として遺されているから、尚更に泡沫の感が否めない。

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「カルロス5世騎馬像」 /image via wikipedia
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ハプスブルグ家の統治の下、絶頂を迎えたスペイン当主カルロス5世(スペイン国王としては1世)が、カトリックの盟主国としてプロテスタントとの戦いに勝利したことを祝して描かれた、(伊)ティッツィアーノ(1490頃~1576)『カルロス5世騎馬像』(1548年/プラド美術館)の勇壮さに比べると、スペイン帝国最期の君主カルロス2世を描いた(西)フランシスコ・デル・ゴヤ(1746~1828)『カルロス4世の家族』(1801年頃/プラド美術館)に含まれた寓意については【コラム】美術の皮膚(57)「おしゃべりな絵画~反骨の画家ゴヤ~」で書いたけれど、滅びゆく帝国の虚ろな肖像画に、改めて時代の空気を描いた巨匠たちの腕前には感心するしかない。

ナポレオンの戴冠式

もっとも、作品によっては時の君主に都合の良いように描かれている場合もあるから、(仏)ジャック・ルイ・ダヴィッド(1748~1825)https://artoftheworld.jp/artist/jacques-louis-david/『ナポレオンの戴冠式』(1807年頃/ルーブル美術館所蔵)を例に挙げるまでもなく、そんなに簡単に信じる訳にもいかない。

ダヴィッドの場合は、画家自身もフランス革命を急進的に主導したジャコバン党員だったこともあるから、喜んでこの潔いくらいに(作品の出来栄えとは別の意味で)嘘だらけの作品を描いたのだとは思うけれど、そうでない場合は、画業を生業にしているとはいえ、表現者しての矜持の置き所に困ったのではないかと余計なお世話を焼きたくなる。しかも、そんな作品が自身の出世作や代表作として後世に語り継がれることまでは、きっと予想はしていなかったとも思う。

ナイトの称号を与えらるほどフェリペ4世に寵愛されていた「王の画家にして画家の王」ルーベンスは、7か国語を話すインテリであることに加えて、当時の外交策のひとつとして(日本の戦国時代の茶器のように)絵画を寄贈することが多かったヨーロッパで、外交官的な役割まで担う人気画家で、アントウェルペンに大工房を構えるほどの注文がヨーロッパ中から舞い込んでいたけれど、その代表作のひとつ『マリー・ド・メディシスの生涯(マルセイユ到着)』(1625年頃/ルーブル美術館所蔵)も、彼女本人からのかなり無理筋の依頼だったと云われている。

マリー・ド・メディシスの生涯(マルセイユ到着)

名前からも想像できる通りマリー・ド・メディシスは、ルネサンス期に世界史上類を見ない規模のパトロンとして君臨していたフィレンツェの名門メディチ家から、アンリ4世の王妃としてフランスに嫁いだのだけれど、それは経済的に逼迫していたフランスが富裕なメディチ家からの持参金目当ての政略結婚だった。ハプスブルグ家の場合と比べると、少しケチ臭くて情けない感じがしないでもない。

当時の文化大国イタリアから格下のフランスへ嫁いだ花嫁が馴染めるわけもなく、その上にカトリックとプロテスタントの融和を積極的に図っていた夫のアンリ4世は、それに反抗する狂信的なカトリック教徒に暗殺されてしまったり、後を継いだ幼い息子ルイ13世の後見として政治の舞台に登場したけれどその息子と不仲になったり、カトリックを擁護するあまりフランスの宿敵スペイン・ハプスブルグ家のフェリペ4世に娘エリザベート・ド・フランスを嫁がせたり、いつまで経ってもイタリア風が抜けなかったり、結局は失脚することになるのだけれど、そんな中で自身の人生を華々しいものとして遺そうと試みたのが前述『マリー・ド・メディシスの生涯(マルセイユ到着)』だと云われている。

恐らく彼女の人生は、壮大な24連作に描かれたほど華やかではなかったはずだから、神話に準えてそれらしく表現されてはいるけれど、なんなら脇役のはずの画面下部に描かれた女神たちの方を主役級の存在感で表現しているのは“画家の王”ルーベンスの皮肉なのかもしれないとさえ思ってしまう。

これといった功績がないどころか、いつまでもイタリアのプライドを捨てられずに失政を重ねたマリー・ド・メディシスだけれど、フランスにとって重要なモノも残した。味気なくて口に合わないフランスの食事を、故郷イタリア風に洗練させたから、フランス料理は今や世界三大料理のひとつに数えられている。

ちなみに、カトリックの絆を強固にするためにスペイン・ハプスブルグ家に嫁いだエリザベート・ド・フランスは、後にルイ14世に(支払われることのなかった)持参金付きで今度はフランスに嫁ぐことになるマリア・テレサの母だから、この時代の縁戚関係は本当にややこしいけれど、それに先んじて日本でも16世紀の戦国時代には政略結婚による和平は行われていたりする。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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