コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(36)「世界有数の画家集団~秘めて続いた狩野派と開いて残ったHOKUSAI~」

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織田家、豊臣家、徳川家といった時の権力者に、永きに渡って庇護され続けたDNAには弱点もあった。

明治時代に入って西欧化が進むと、担保されたクオリティがあだになってしまう。徳川幕府は、封建社会の安定を望んで新奇な作品よりも古典を好み、「粉本」を継承する狩野派は重用されたのだけれど、江戸時代以前を否定さえするような文明開化の激しい波の中で、新しい日本を模索する風潮は、狩野派にとって逆風となる。

高い技量を維持していた画家集団ではあるけれど、永徳を超えていく新しい才能は育たず、時代の変化に対応できずに狩野派の勢いは衰退する。

狩野永徳という当代一の画家を頂点に栄華を極めた狩野派は、永徳の才能を標準化することによってマイナーチェンジを繰り返し、400年の永きに渡り繁栄したけれど、皮肉にもそのことが明治の世の中を越えられなかった理由にもなってしまった。

時代に寄り添えなくなった芸術は、急坂を転げ落ちるように消えていく。ただ、そのことで狩野派の功績に曇りが生じることはない。

狩野永徳(1543~1590)没後から170年後の江戸に、もう一人の日本を代表する画家が生まれている。「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」(1999年LIFE誌)にも選ばれている(日)葛飾北斎(1760~1849)だ。

時の権力者の庇護を受けた狩野派とは違って、市井で活躍した北斎は、30回も画号を変えたり、90回以上も引越しをするなど、奇行の人であっただけでなく、出世やお金には興味がなかったと云われているから、画壇の頂点を目指した永徳とはまったく逆の生きざまだ。

Hokusaimanga

北斎も50歳半ばで絵手本『北斎漫画』を描いている。これも、狩野派の『粉本』が一派のために描かれたものであるのに対して、広く絵を学ぶ者たちの為に出版されている。

人物や動植物、妖怪まで4,000図以上の他にも、遠近法の例まで描かれているから、デファクト・スタンダードとして江戸の職人たちにまで評判になって、北斎の死後も含めると15巻が出版されて広く普及した。

しかも、国内での人気だけではなく、『北斎漫画』はヨーロッパにも伝わって、特に印象派の(仏)クロード・モネ(1840~1926)、(蘭)ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853~1890)をはじめとする19世紀の西洋美術界に大きな影響を与えたというのだから、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」(1999年LIFE誌)に選ばれたりもする。

そして、日本で出版された『北斎漫画』15巻の他にも、医師であり日本美術の収集家であった(米)ウィリアム・スタージズ・ビゲロー(1850~1926)らが、ボストン美術館に寄贈したコレクションの中から、北斎の肉筆画を基にした日本未発表の『北斎漫画』続編3巻が、200年の時を経て出版されたのだから、時空を超えた北斎の力も計り知れない。

時代に寄り添って400年もの間「守る」ことで画壇の頂点に立ち続けた狩野派と、時代を泳ぐように生きた北斎の、どちらに優劣がある訳ではない。

実は、北斎も若い頃には狩野派に学んだことがあるのだから、派閥を超えて脈々と才能の系譜は続いている。そしてなにより、今や両者の作品たちは、国も時代も超えて、世界中で高く評価されている。

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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