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【コラム】美術の皮膚(123)「ハプスブルク~女帝マリア・テレジア~」

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分家のスペインは、1700年に39歳の若さで5代目君主カルロス2世が亡くなると、王位の継承権がフランスのブルボン朝へと移って消滅したけれど、本家のオーストリア・ハプスブルクは、スペイン帝国よりも広大な領土ではなかったけれど、第一次世界大戦で敗戦する1918年まで600年以上続くことになる。

もちろん、その間ずっと順風満帆であったわけではなくて、特にゴート系のフランスやプロイセン(ドイツ)との確執は長きに渡る。お叱り覚悟で言えば、長兄ドイツ、次男フランス、末弟イギリスは同じゴート人を出自に持つから、戦争の大陸と揶揄されるヨーロッパの歴史は、3国の兄弟げんかに終始しているのだとすると、ドイツ、フランスが牛耳るEUからイギリスが脱退することは至極当然の歴史の流れなのかもしれないとも思う。

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「少女時代のマリア・テレジア」/ image via wikipedia

18世紀になるとヨーロッパの覇権争いが激しくなってくるから、神聖ローマ帝国に君臨する名門ハプスブルク家も、政略結婚による緩やかな統治では済まなくなってくる。それどころか本家に男児が生まれないという緊急事態がやってきた。これはもうハプスブルク家の根幹を揺るがす一大事だ。多産の家系に高を括っていたカール6世だったけれど、この時ばかりは規則を捻じ曲げて何の帝王学も学ばせていなかった愛娘のマリア・テレジア(1717~1780)を後継ぎにしようとした。

ところが、これに異を唱えた帝国内の不満分子たちが不穏な動きを見せると、この機に乗じて身内だったはずのプロイセン王国(ドイツ)が侵略を企ててきた上に、カール6世は急逝してしまう。そうなるとオーストリアの皇位継承に絡む戦争(オーストリア継承戦争)は、ヨーロッパの主要国を巻き込んだけれど、これはハプスブルク家を中心に当時のヨーロッパが廻っていたことに他ならないのだと思う。

とはいえここで途絶えてしまったら、ハプスブルク600年の栄華はなかったことになるから、もちろん窮地を救う英雄が現れることになるのだけれど、それは既に3児の母だった23歳のマリア・テレジアだった。しかも4人目を妊娠中だった彼女は、ハンガリー軍を説得して仲間に付けると、フランスとプロイセン(ドイツ)を向こうに回して、圧倒的不利の中で痛み分けくらいにまで持ち込んだ。

宿敵プロイセン王のフリードリヒ2世をして「今のハプスブルク家では、稀に見る男性が統治している。ところがこの男性と言うのが女性なのだ」と言わしめたマリア・テレジアだけれど、男勝りの猛者なだけではなくて、愛する夫フランツ1世との間には16人の子供をもうけ、多産の家系の面目躍如も果たし、“国母”としても義務教育の完備や、福祉の充実に手腕を発揮した。

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「フランツ1世とマリア・テレジアと家族」 / image via wikipedia

一方で、宿敵プロイセン打倒への執念も強いから、“継承戦争”共に戦ったロシアだけでなく、敵であったはずのフランスとさえ手を組んで、執拗に追い詰めた。3国の権力者が女性(仏ポンパドール夫人、露エリザヴェータ)であったことから、女性の下着に準えて「ペチコート同盟」と呼ばれることもある。この時のフランスとの和解によって、マリー・アントワネットはフランス国王ルイ16世に嫁ぐことになる。

その後も戦争の大陸は、小競り合いに終始していたけれど、中でもハプスブルクを含む王族たちの最大の脅威は、ナポレオン・ボナパルトだったに違いない。この時のハプスブルク家は、プロイセンと組んでフランス革命軍と戦ったのだけれど、若き英雄とナショナリズムに燃える国民軍に敗北して、ナポレオンにマリー・ルイーズを嫁がせて辛くもオーストリア皇帝として存続したのは、いかにもハプスブルク家らしい。

そもそもこの“ナポレオン戦争”と呼ばれる市民戦争の始まりは、フランスで興った王族に対する市民革命について、外国からの干渉を防ぐための戦いだったはずだけれど、勢い余ってヨーロッパを荒廃させる侵略戦争へと繋がっていったのは、お叱り覚悟で言えば、ナショナリズムに起因する市民たちのエネルギーの他にも、ナポレオンの出自がインチキな貴族だったことにもあるような気がしてならない。

ポンパドゥール夫人
「ポンパドゥール夫人」

元々、コルシカ島の一般市民だったボナパルト家は、独立闘争の最中に祖国を裏切ってフランス側に寝返った見返りとして貴族相当の権利を与えられただけだから、ホンモノの王侯貴族たちへの少なからずのコンプレックスはあった気がする。

ナポレオンの戴冠式

実際に、ナポレオンは、ポンパドール夫人が主導した貴族趣味のロココ様式を否定して、古典的で荘厳な古典的な美術を好み(仏)ダヴィッド(1748~1825)を重用して自分を英雄に見立てるための作品を描かせた。要は、インチキ貴族の出自を覆すためにホンモノの貴族たちを倒してしまおうという腹だったのかもしれないなんて言うと過言だけれど。

フランス革命の主導者ナポレオンの功罪は数多くあるのだろうけれど、重ねてお叱り覚悟で勝手なことを言えば、結果として荒廃したヨーロッパから海峡を隔てたイギリスに覇権を与えて、産業革命の礎を作っただけでなく、戦争で多くの若者たちを失った結果、労働力不足でその波にも乗れず、苦肉の策で芸術大国へと舵を切らざるをえなかったことが、皮肉にも一番の功績なのかもしれない。

ナポレオンの好んだ新古典主義に対抗したロマン主義、印象派や象徴主義が生れて、第二次世界大戦後にニューヨークに移るまで、花の都パリは美術の中心であり続けた。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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