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【コラム】美術の皮膚(35)「世界有数の画家集団~尽きていなかった狩野永徳のDNA~」

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京都を離れ、江戸に幕府をおいた徳川家康は、信長や秀吉の華やかな治世の脆さを弁えて、芸術とは無縁の将軍のように見えるけれど、家康こそが芸術を理解していたのではないかと個人的には思っている。芸術の魅力を理解した上で、その危うさを政治から遠ざけ、およそ250年以上も続く天下泰平の世の中を実現したからだ。では、何故わざわざ安土桃山時代を象徴する狩野派を起用したのか疑問が残る。

実は、4代目狩野永徳の時代に、信長、秀吉といった時の将軍たちからの庇護を受けて、絶頂期を迎えた狩野派だけれど、それは決して狩野永徳ひとりの画才だけに由るものではなかった。

稀代の画家・永徳が亡くなり、強大な庇護者が天下から去った江戸時代を迎えても、なお新しい才能・狩野探幽が出現したのは、決して偶然ではない。

狩野派は、華々しい作品を遺す一方で、派閥拡大のための組織的な戦略を水面下で進めていた。長谷川派が、跡取りをなくして衰退するのとは対照的に、狩野派は(探幽のみならず)多くの子孫や弟子を分家させることで組織を拡大し、織田家、豊臣家だけではなく、朝廷や徳川家にも御用絵師を送り込んでいたのだ。

永徳は、依然として文化の中心だった京都に息子・山楽の「京狩野家」を残し、孫たちは探幽の「鍛冶橋狩野家」をはじめとして「木挽町狩野家」、「浜町狩野家」、「中橋狩野家(宗家)」と江戸で分家させている。

こうして狩野派の画家たちは網の目のように世の中に蔓延って、脈々と日本画壇を手中に収めていたのだから、家康が狩野派に障壁画を依頼したのは偶然ではなく、むしろ他に選択肢がなかったのだと思う。

狩野派の繁栄は、永徳の政治力と創作力の卓越したバランス感覚に因るところが大きいけれど、実はこの巨大組織を成立させ続けた要因こそが、以後400年もの間続いた、才能の連鎖という偶然だけに頼らない狩野派のDNAでもある「粉本主義」だ。

狩野派の弟子たちは、最初から各人の独創で描くのではなく、永徳の画風を標準化した『粉本』と呼ばれる狩野派独自のお手本の模倣を徹底させれる。さらに手本の習得を基本にして、優秀者には絵師の名と免状を与える家元制度を作り、弟子たちを技量でランク分けした。

これによって、前述の江戸「奥絵師四家」を頂点とした「表絵師-各藩御用絵師-町狩野」と列なる巨大組織を仕立てたのだ。「町狩野」に至っては、今でいうところの町の絵画教室で、弟子たちに仕事を与えるだけではなく、市井の才能を発掘して画家の育成までしていた。

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しかも、大きな仕事を受けた時に、上位の弟子たちに分担すれば統一性が保たれる。例えば、花や鳥の絵を描く時に弟子たちは『鳥類図鑑』(京都国立博物館/室町時代)を手本に描くから、クオリティは担保される。

狩野派の弟子たちは、手本を学び、高度な技術を手に入れることで狩野派独自の画風を継承し、個人を超えた組織として、明治初期まで400年間画壇の頂点に君臨した、世界でも類を見ない画家集団になる。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター

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