コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(136)ゴッホとゴーギャン~パリに居場所のなかったゴーギャン~

今までの連載はコチラから

1891年タヒチに着いたゴーギャンは、都会の喧騒から逃れたいと言っていたにも関わらず、タヒチの中でも西欧化の進んでいた首都パペーテで過ごしたそうだから、ますます彼の遺した文言を言葉通りに受け取る訳にはいかなくなる。

ただ、相変わらず経済状態はひっ迫していたようで、パペーテの郊外に竹で作った掘っ建て小屋を自分で作って住んでいた。ゴーギャンといえば、パリを嫌って野生を求め南国に住み続け、豊かな自然の中で傑作を描いたイメージだけれど、2年後の1893年にはまたパリに戻っている。

画家仲間に嫌われて、居場所がなくて南の島に逃げただけだなんて、思っていても言わないけれど、後世に作り上げられたゴーギャン像くらいは否定したくもなる。

笛を吹く少年

その証拠に、神格化されたイメージと共に、後に彼の“傑作”と呼ばれているのは、『タヒチの女たち(浜辺にて)』(1891年/オルセー美術館)や、2014年に3億ドル(当時の最高記録)で取引された『いつ結婚するの』(1892年/カタール美術館?)といった、タヒチ行き以降の作品ばかりだ。

Paulgogan
「いつ結婚するの」/image via wikipedia

タヒチの滞在中にパリに送った作品は、亡きゴッホの作品と一緒に展示されたけれど、既に人気の出始めていたゴッホの作品に比べて不評だったというのが掛け値なしの当時の評判だ。

ピサロをはじめとした印象派との確執、エミール・ベルナールとの不仲、そして破綻したゴッホとの共同生活のほとぼりが冷めた2年後に、パリに戻ったゴーギャンは、タヒチで得たイメージを元に創作を続けると、ポスト印象派の流れにも乗って絵が売れ出す。

印象派を世に出した画商のデュラン・リュエルは、ゴーギャンの作品を面白がって取り上げたから、パリにもゴーギャンの居場所ができるかと思いきや、恐らくゴーギャンの自尊心が災いして、継続的な取引は成立しなかった。デュラン・リュエルは、印象派以降の画家たちの作品をアメリカに持ち込んで商業的な成功を収めていたのだけれど、ゴーギャンはそこに加えてもらえてはいない。

私生活でも、タヒチで知り合った10代の少女をパリに連れ帰って、愛人兼モデルにしていたけれど、なんなら軽い誘拐だろう。もちろん、苦労を分かち合った妻との中も破綻している上に、親戚から相続した遺産を妻には一円も渡さずに(紛争の末に嫌々1/10程度が分与された)一方的に縁を切ったりもした。

僕が殊更に悪く言うまでもなく、本人にも少なからずの罪悪感はあったようで、何故か創作に熱心でなければいけないこの時期に「ノアノア(かぐわしき香り)」という自伝的随筆を書いている。しかし、どこかで聞いたような文言と空想が入り混じったこの内容が、まるで自身の人生を正当化する自尊心の賜物であるような印象を受けてしまうのは、僕だけではないはずだ。

「ヨーロッパの因習や人工的な何もかも」からの決別だと嘯いてタヒチに渡っておきながら、未練がましくパリに戻ったゴーギャンの生活は、成功には程遠いものだったし、自尊心を取り戻そうと、過去の栄光にすがるようにむかし若い画家たちから慕われたポン=タヴァンを再び訪れたけれど、一向に絵は売れない。

それどころか、歴史のある文芸誌「メルキュール・ド・フランス」1895年6月に、“総合主義”を共に立ち上げた(ゴーギャンは自分一人が立ち上げたと吹聴していた)はずのエミール・ベルナールが、痛烈にゴーギャンを批判する記事を掲載したものだから、やはりパリの美術界にゴーギャンの居場所はなくて、再びタヒチに逃げ戻ることになる。

だから僕はどんなに美術界の権威たちがゴーギャンを「野生を求め南の島に渡った孤高の画家」と美談に仕立て上げていたとしても、それを鵜呑みにできないでいる。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」