コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(113)「ロートレック~過剰な距離感~」

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ドガロートレックの似ているところばかり書いたけれど、もちろん違うところもある訳で、僕が思うに一番違うのはストイックさなんだと思う。

例えば、数々の女性と親密な関係にあったロートレックだったけれど、ドガは「画家は個人的な人生を持たない」という信念の為に、生涯独身だった。唯一、浮いた話があるとしたら師弟関係にもあった女流画家の草分けとも云える(米)メアリー・カサット(1844~1926)だけれども、彼女が死の直前にドガにまつわる手紙やで作品をすべて焼却してしまったので本当のことは闇の中だ。

女性に対してだけではなく、ドガは気難しくて人付き合いも悪かったけれど、でもどうやら自分でもそのことは解っていて、数少ない友人の画家仲間に「どうにも厄介なヤツが私の周りにいて、それは自分だ」って愚痴とも反省ともつかないことを言っていたと云われているから、やっぱり孤高の存在としての画家のスタイルを確信的に演じていたのだと思う。ただ、その他者との距離感が、彼の作品を皮肉っぽいモノにしていて、他者の人生に過剰なまでに寄り添うロートレックとの違いになっているのだと思う。

Lautrec moulin rouge la goulue1
ムーラン・ルージュのラ・グリュ / image via wikipedia

先にご紹介したロートレックのポスター画第1作目にして代表作の『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』(1891年)だけれど、ロートレックと「ムーランルージュ」の関わり合いは、ポスターを依頼される前から続いている。

ロートレックは1889年に開店したお世辞にも上品ではないモンマルトルのキャバレーの常連さんだった。そういう意味では開店当時からの「ムーランルージュ」を良く知る人物として適任だったし、踊り子たちのとの親密さは、既に人気ポスター画家として有名で、「ムーランルージュ」の開店時のポスターも描いた(仏)ジュール・シェレ(1836~1932)に比べるまでもないだろう。

ただ、ポスター画を芸術にまで高めたことでマスターピースになっている『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』(1891年)も、夢を売るポスターとしての機能は、踊り子たちを美化して描くシェレの方が上だったようで、翌年にはシェレのポスターが再版されたと云う。ロートレックも、実はポスター画を盛んに描いたのは数年で、徐々に本来の画業に戻っているから、何かポスターに特別な思い入れはなかったのかもしれない。

ロートレックが「ムーランルージュ」と同じように入り浸ったのが娼館だ。息子への経済的な支援を続けていたけれど、決して後継ぎとして認めはしなかった父親との軋轢や、時折聴こえてくる姿形への揶揄は、想像以上にロートレックの心を乱すから、まるで19世紀パリを体現するように、退廃的な生活を送ることになる。

一番落ち着くのが娼館だと言って憚らなかったし、実際に多くの娼婦たちと関係を持った。自虐的に自らの旺盛な性欲を「大きな注ぎ口のあるコーヒーポット」だとも揶揄していた。

最初のうちは貴族的な暮らしへの反発、社会的弱者への共感といった動機もあったのだとは思うけれど、その過剰な距離感はロートレックの人生を退廃へと導いて、アルコール依存や性病を患って36歳の若さでこの世を去らせることになる。

化粧
化粧」トゥルーズ=ロートレック

親の仕送りで暮らしていたことを考えれば、僕は決してそこに共感はできないけれど、彼の抱えていた極度のコンプレックスやストレスもまた、僕の想像を超えたものだったのだと思う。ただ、だからこそ描けた、優しい作品の数々『ムーラン通りのサロン』(1894年)、『化粧』(1896年)を観ると、何とも言えない哀愁を感じてしまうのだから仕方がない。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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