コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(162)ベネツィア派~独り勝ちの功罪~

今までの連載はコチラから

16世紀を代表する画家ティツィアーノが名声を確立したのは『聖母被昇天』(1516年~17年/サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂)だ。まさにティツィアーノがこの絵を描き上げた頃に師匠ベッリーニが亡くなって、「センサリーア」と呼ばれるヴェネツィアの公式画家の跡を継いだ。

聖母の被昇天

聖母マリアが、キリストの弟子たちに見守られて天使たちに導かれて昇天するヴェネツィア最大(約7m×4m)のこの名作は、教会の祭壇画とは思えないほど鮮やかな色彩で描かれていて、個人的にもこの作品が何故「世界三大名画」に含まれていないのか?疑問でもあるのだけれど、文化の中心から少し離れたヴェネツィアの教会に飾られているから、目立たなかっただけなのかもしれない。

とはいえ、デッサンを重視して人間の理性に訴えかけたルネサンスが16世紀半ばには停滞(マニエリスム)してしまうのに対して、鮮やかな色彩で心に直接的に訴えかけたヴェネツィア派は16世紀の終わりまで続いたし、対抗宗教改革を追い風に絵画黄金時代と呼ばれたバロック期の批評家たちは、マニエリスムを批判する一方で、ヴェネツィア派の美術を賞賛している。

ベッリーニ(1430~1516)、ジョルジョーネ(1476/頃~1510)と継がれたヴェネツィア美術の系譜は、ティツィアーノ(1490頃~1576)によってヴェネツィアだけではなく、ルネサンスを代表するどころか、その後350年の時を経てマネ草上の昼食』によって再び表出するから、時空を超えて脈々と受け継がれていく。しかも、よくある「時代が早すぎた」とか「歴史に埋もれた」才能が思い出されたのではなくて、その経緯や理由は具体的に語られている。

草上の昼食

神格化された物語性や、生まれた時代の幸運だけではなく、ティッツィアーノが後世に影響を及ぼした理由のひとつに、テーマを選ばず肖像画、風景画、神話・宗教画の全てにおいて名作を遺したのだと云う。だから画題の流行り廃りに左右されないということなのだろう。もちろん、それを実現したのは宗教的な因習に縛られずに、“繊細にして大胆な筆使い”や“色彩感覚”といった、それまでの西洋美術においても革新的な確固たる技術を駆使したからであって、そして何よりも新しいことに挑戦する創作態度だから、深い河が静かに流れるように、目立たなくても脈々と継がれていったのだろう。

Gustave Moreau Salomé 1876
「サロメ」/ image via wikipedia

19世紀末が内包する華やかさと不安や恐怖の二面性を描くために、モローやクリムトが美しさと残忍性を併せ持つ「ファム・ファタール」の象徴として盛んに引用した「サロメ」や「ユディト」の原形として、ティツィアーノ『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1515年頃/ドリア・パンフィリ美術館)が語られることが多いけれど、まさに聖書の登場人物を理想化した女性の肖像画へと昇華させているこの作品はのモデルは、ヴェネツィアの娼婦だったというのだから、ヴァチカン付近で描かれていたならば宗教裁判ものだったろう。悩めるクリムトはヴェネツィアへの旅で、あの妖艶で独特な自らの作風をみつけたと云われているのも頷ける。

CaravaggioSalomeMadrid
「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」/ image via wikipedia

ただ、ヴェネツィア派の系譜を僕が整然と説明できるのには皮肉な理由がある。栄華を誇ったヴェネツィアとはいえローマに比べたら、綺羅星のような巨匠たちが活躍するには小さ過ぎたし、それに加えて、ヴェネツィアだけではなくヨーロッパ中から注文が殺到したティツィアーノの実力が突出してしまった為に、それ以外の画家たちがヴェネツィアにはなかなか育たなかった。しかもティツィアーノは80歳以上も長生きするものだから、「センサリーア」として50年以上も君臨して結果として若い芽を摘むことになる。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」