コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(58)「おしゃべりな絵画~歴史の証人ゴヤ~」

今までの連載はコチラから

1807年にポルトガル侵略の名目でフランス軍がスペインに侵攻すると、6年間にも及ぶ対仏独立戦争が勃発する。するとゴヤは宮廷に留まらず、戦禍を目撃するために戦場に足を運ぶ。

マドリード、1808年5月2日

民衆の蜂起を描いた『マドリード、1808年5月2日』(1814年/プラド美術館蔵)では、ナポレオンに派遣されたエジプト兵の怯えた表情で、スペイン市民がナポレオン軍に捕らえられ処刑される場面を描いた『マドリード、1808年5月3日』(1814年/プラド美術館蔵)では、無残に銃殺され血の海に横たわる死体で、戦いの壮絶さを表現した。

特に、死を覚悟した無名の市民を十字架にかけられたキリストのように英雄として描いたことは、新しい歴史画の誕生と云われている。

写実的な表現や美術界での保守的な地位が新古典主義の画家のようだけれど、まさに自分たちの生きている時代を情熱的に豊かな表現で描く(反体制の)ロマン派に近いところが“反骨”の画家ゴヤのゴヤたる所以だと思う。主席宮廷画家になっても「絵画にはいかなる規範も存在しない」と言ったのだからきっと間違いない。

保守と革新の間をバランス良くすり抜けてスペイン画壇の頂点に立ったゴヤだったけれど、戦争という人間の暗部を見つめ過ぎて作風は暗くなり、それだけでなく戦禍はゴヤにも及んだ。

裸のマハ

王妃の愛人だったマヌエール・ゴドイがナポレオン軍に追われて亡命すると、残された屋敷の寝室からゴヤの描いた2枚の絵が発見された。その1枚が歴史的な問題作『裸のマハ』(1795~1800年頃/プラド美術館蔵)だったから、69歳の主席宮廷画家は15年前に描いた“生身”の裸婦像の所為で宗教裁判にかけられることになる。しかも、およそ高さ1m幅2mの大きな裸婦だ。

裁判の焦点は、この作品が依頼されて描かされたものなのか?ゴヤが自主的に描いたものなのか?だったけれど、ゴヤは自らの庇護者でもあったゴドイを庇って依頼主と認めなかった。でも、人間の内面を描くゴヤの『マヌエール・ゴドイの肖像(オレンジ戦争司令官としてのゴドイ)』(1801年/サン・フェルナンド王立美術アカデミー蔵)を観ると、ゴドイの不遜で傲慢な人格が窺えるから、きっとゴヤはゴドイを嫌っていたはずで、ただ宗教裁判に対して“反骨”を示しただけだったのかもしれない。

しかし裁判の行方は、歴史上フランスとの講和条約を締結した平和侯爵とも呼ばれるゴドイだけれど、当時はフランス寄りの態度が国内で不人気だったから、自分の(王妃とは別の)愛人を描かせたものだと考えられて、ゴヤは事なきを得た。

着衣のマハ

というのも、ゴドイの寝室ではもう一枚『裸のマハ』とほぼ同じサイズ、同じポーズで描かれた、当時のスペイン社交界の流行していたトルコ風ファッションに身を包んだ『着衣のマハ』(1800年~1805年/プラド美術館)もみつかったからだ。いつもは“着衣”を飾っていて、ごく親しい友人が訪ねてきた時の余興のために“裸”をその裏に隠してカモフラージュしようと、2枚一組でゴヤに注文していたという証拠になった。

王妃の威光で若くして宰相になった上に、国を捨ててとっとと逃げ出したゴドイの趣味はかなり悪い。

しかし、後になって肖像画の名手ゴヤにしては“マハ”の表情が不自然すぎると、描きかけの『裸のマハ』を観たゴドイが、モデルを自分の愛人ペピータに無理矢理に替えさせたのではないかとも云われている。裁判中にこの情報が漏れていたら、きっとゴヤは重罪に処されていたはずだ。

でもそうなると最初のモデルは誰なのか?気になる。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
    スポンサードリンク

これまでの「美術の皮膚」