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【コラム】美術の皮膚(88)「印象派物語~泡沫に消える印象派~」

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印象派が公的な認知を得て、モネやピサロが経済的な成功を手に入れた頃と時を同じくして、一度壊れたはずの印象派がもう一度壊れる大事件が起こる。印象派どころか現在の社会にまで遺恨を残す“ドレフュス事件”だ。

普仏戦争の敗戦に混乱するフランスでは、言いようもない怒りからスケープ・ゴートが必要だった。フランスの機密をドイツに流したスパイがいるとの疑いが湧くと、その犯人としてユダヤ人将校が逮捕される。

結果として冤罪であることが判明するのだけれど、キリスト教(特にカトリック)に根強く残るキリストを裏切った単純なイメージだけではなく、1882年の株価暴落でロスチャイルドなどのユダヤ系金融資本に翻弄された国民感情が、新聞等の報道を過熱させてしまうから、フランス革命によって手に入れた、トリコロールにも刻まれている「自由、平等、博愛」の理念さえ凌駕するような反ユダヤ主義が表出してしまう。

アルフレッド・ドレフュス大尉が釈放されて、フランスの理念は守られるのだけれど、未だに残る偏見に対して、逆にユダヤ人たちが怖れを抱いたから、やはり独立国家が必要だとシオニズムが叫ばれて、イスラエル建国に繋がっていく。

オランピア

ドレフュスの釈放に大きく貢献したのが、自然主義文学の小説家(仏)エミール・ゾラ(1840~1902)で、世論が有罪に傾く中、新聞に軍部の横暴や反ユダヤ主義を批判する「我弾劾す」(1898年)を寄稿した。ゾラは、官展(サロン)で酷評されたマネの『オランピア』(1863年)を擁護して、古典への対抗を標榜したマネや印象派を早くから擁護しただけではなく、幼少期から友人だったセザンヌをモデルにしたと思われる小説「制作」(1886年)では、主人公の画家が不遇のまま自殺を遂げる結末に対して、セザンヌを含めた画家たちの顰蹙を買うなど、良くも悪くも画家たちとの関わりが深い。

だからではないだろうけれど、このドレフュス事件に対して、普仏戦争で親友バジールを亡くした哀しみを隠せないルノワールと、元々反ユダヤ主義であったドガは、ドレフュスの有罪を主張してしまう。一方、ピサロはユダヤ系デンマーク人だから両者の溝は、画風がどうこうの話ではなくなって、印象派という群像劇は跡形もなく消えそうになった。

この顛末については、画家たち個人の責任でも人格でもなくて、この時代の不穏さに理由があるのだと思う。まさにこの世紀末の不穏な空気の中に現れたのが、芸術を現実に属させず芸術そのものとして確立させようと謳う、象徴主義や耽美主義だから、殊更に画家たちを庇っているつもりはない、と思う。

そして、この大事件によって歴史の泡沫となって消えてしまいそうな、印象派を救ったのがエミール・ゾラと共和主義の盟友でもあった、美術評論家の(仏)テオドール・デュレ(1838~1927)の発表した「印象派の画家たちの歴史」(1906年)ではないかと思う。しかも、お叱り覚悟で言えば、冒頭に少し登場しただけなので、お忘れかもしれないけれど、混沌とした群像劇を、絵を描くでもなく、絵を売るでもなく、ただひたすらに擁護し続けた彼こそが、日本人が印象派を特に好む理由に一役も二役も買っているのだと。

パリ・コミューンにも参加するくらいの反ナポレオンの共和主義者だったデュレは、古典という権力に対して戦う印象派を、終始擁護し続けた。パリ・コミューンが政府軍によって鎮圧されると、彼はパリを逃れ諸国を旅するのだけれど、その時にイギリスでピサロと出会い、日本にも旅している。その頃の日本は明治維新を経て文明開化の真っ盛りではあったものの、外国人の渡航がそれほど自由であったかどうかは定かではないけれど、歌川広重『東海道五十三次』をなぞって旅して、浮世絵を大量に収集したとも云われている。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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