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【コラム】美術の皮膚(32) 「世界最大の画家集団~天下の猛将を感嘆させた理想郷~」

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室町幕府御用絵師狩野派4代目として京都に生まれた永徳は、幼い頃から絵師としての才能を認められ、10歳の頃には祖父元信と共に、後継として13代足利義輝に面会している。

若くして将来を嘱望された永徳は、23歳の時に父・松栄と共に、1566年に建立された聚光院(京都/臨済宗)本堂の障壁画(国宝)『琴棋書画図』狩野松栄/永徳(聚光院蔵*京都国立博物館に寄託/1566年)を描く。

8面の襖に描かれた主題は「琴、囲碁、書、画」といった、中国の文人たちに必要とされた教養で、室町時代の知識人たちが憧れた中国文化の理想図だった。

新古典の巨匠アングルも重要視した描線は、日本画においても重要とされていて、「線」が樹木や水に命を与え、様々表情を創るのだと考えられていたのだから、まさに『琴棋書画図』に見られる永徳の「線」からは、並々ならぬ画力がうかがえる。

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また、『琴棋書画図』の隣の間に描かれた(国宝)『花鳥図襖』狩野永徳(聚光院蔵*京都国立博物館に寄託/1566年)は、近年になってその完成度の高さから、永徳の絶頂期である40歳頃に描かれた作品ではないかと再考証さえされている。

室町時代の障壁画には、部屋ごとに主題を変える不文律があって、『花鳥図襖』には四季折々の花とそこに集う鳥たちが描かれている。春の訪れを描いた「梅の木」は、後の永徳の最大の特徴にして、後世の画家たちに多大な影響を与えた、荒々しい筆致で対象を巨大に描く「大画様式」に通じているけれど、これをもって前述のように制作年度への再考がなされている。いずれにしても、力強い永徳の描写は、祖父元信の影響を強く受けながら、既に若くして元信を超えたと云われている。

そして、「梅の木」に止まった鳥たちの視線は正面奥に控える仏間に向かい、仏間に通じる襖には、鶴と水鳥がまるで案内をするような佇まいで描かれている。

さらに、その設計も永徳が手掛けた「百積の庭」には、当時は雪解け水に見立てた白砂が敷かれていて、『花鳥図襖』の画中から庭に「水」が流れていく演出が加えられていたと云われているから、大胆にして緻密な計算には驚くばかりだ。

どうやらこれに驚いたのは僕ばかりではなくて、戦乱の世を切り拓いた織田信長も感心したらしい。

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上杉本 右隻 / image via wikipedia

京都から遠く離れた山形県米沢市にある(国宝)『洛中洛外図屏風』「上杉本」狩野永徳(米沢市上杉博物館蔵/16世紀室町時代)は、13代征夷大将軍・足利義輝が上杉謙信に贈るために若き永徳に依頼をしたとされている。

中国の洛陽を模範とした京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を理想化した「洛中洛外図」は当時人気の主題だったけれど、その中でも屈指の名作と云われる『洛中洛外図屏風』「上杉本」は、応仁の乱以降、衰退の一途を辿る室町幕府の再興を、文武両道で名高い上杉謙信の力を借りたいと願う義輝の思いだったようだ。

しかし願いは叶わず、完成を前に義輝は亡くなる。代わりに京都に残された『洛中洛外図屏風』「上杉本」を、謙信に送り届けたのは、なんと15代足利義明を京都から追放した織田信長だった。天下取りまであと一歩のところまで来ていた信長は、細密に描かれた登場人物が2000人にも及ぶ作品の出来栄えに感動して、脅威であった上杉謙信を懐柔するために『洛中洛外図屏風』「上杉本」をそのまま謙信に贈ったと云うのだから、敵味方を超えて観る者を惹き付ける傑作だ。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター

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