世界の美術館

【コラム】美術の皮膚(33)「世界有数の画家集団~ヴァチカンに飾られた日本の美」

今までの連載はコチラから

Odanobunaga

永徳の才能に関心した織田信長は、1576年に天下布武の象徴として建てた安土城(滋賀県近江八幡市)の装飾を、30歳を過ぎたばかりの若き絵師に命じる。天下の猛将の依頼に命がけで臨んだ永徳はこれを成功させて、狩野派の名前を天下に響かせた。

西洋の文明を伝えてくれるキリスト教を重用した信長は、1581年に狩野永徳作の豪華な屏風を、宣教師ヴァリニャーノに寄贈し、これが天正遣欧少年使節を通じて、ローマ教皇に献上され、ヴァチカン宮殿にも飾られたと云う。信長の懇意にしていた宣教師ルイス・フロイスはその著書に「日本で最も優れた職人の作品」だと記している。

ところが、1582年の「本能寺の変」で天下取りを目前にしていた信長が死去。永徳は信長の死後に敬意をもって『織田信長像』(大徳寺蔵/16世紀桃山時代)を描く。信長の着衣には、織田家の木瓜紋と共に、足利家に許された将軍家の桐紋が描かれている。

寵愛を受けた信長の死去で、狩野派の命運も尽きたかと思われたけれど、1581年に信長の跡を継いで豊臣の姓を賜り、太政大臣に就いた秀吉が、大阪城と聚楽第の装飾を引き続き永徳に依頼したから、永徳もまた「唐獅子」のように戦国の世を生き抜くことになる。

大徳寺(京都北区)に移築された聚楽第の(国宝)「唐門」は、細部まで観賞すると一日では足りないから別名「日暮の門」と呼ばれている。桃山文化の頂点とも云われている装飾は、竜、鯉、鶴、獅子、孔雀の彫刻が施され、金具には菊や唐草の文様が描かれていて、作品の中心に「自然」を置く世界観は、200年後にヨーロッパを席巻する「アール・ヌーヴォー」さえ思い起こさせると言っても過言じゃない。

豊臣秀吉は、1586年に政権を確立すると、今度は京都御所の襖絵を永徳に依頼する。現存する最古の御所障壁画である『群仙図襖』(南禅寺蔵*京都国立美術館に寄託/16世紀桃山時代)は、中国の仙人たちを理想の姿として細密に描写している。

ダイナミックな筆致の一方で細密な絵も描き、時代の要請にも適う古典を題材にした永徳の作品は、時の朝廷も喜ばせたから、これに目を付けた秀吉は、永徳の作品を利用して朝廷を取り込み、天下統一を謀っていく。そしてそれに比例するように、狩野派の地位もまた確たるものとなっていく。

日本のルネサンスとも呼ばれ、様々な文化が花開いた安土桃山時代は、政治的にも安定し始めていたから、戦に明け暮れていた大名たちが書画や茶の湯を通じて教養を高めることを競った。

その中で、日本画壇の頂点を目指す永徳は、時代の要請を受け入れ、それを上回る出来栄えで時の権力者の寵愛を受けてきた。「時代を表現するために生まれ、時代は彼のために用意された」とまで称される所以だ。

しかし、この世の春を謳歌していた狩野派に、強力なライバルが現れる。茶人・千利休に見出された(日)長谷川等伯(1539~1610)だ。利休の手引きで秀吉に接近した等伯は、みるみる頭角を現して、長谷川派は狩野派と肩を並べる画派となった。

個人的には、等伯の描く艶のある絵の方が好きだけれども、永徳が戦国の世の「剛」だとしたら、等伯は太平の世の「柔」なんだと思う。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター

これまでの「美術の皮膚」