コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(128)ゴッホとゴーギャン~間が悪いとばかりは言っていられない~

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ゴッホは何をやっても長続きしない。画商のビジネスも、牧師の勉強も、絵の勉強さえも途中で諦める。諦めるの語源は“明らかに見る”だから、身の丈を知って他のことに熱中すればまだしも、飽きっぽいだけなのか?と思うくらいに定着しない。

どこか気持ちの真ん中に、思うに任せない世の中への不満だけが残っているように思える。しかし一方で、首尾よく行った時の感激も人一倍大きかったのだとも思う。

ただ、行き当たりばったりで長続きしないのは“間が悪い”人の特徴だ。何処にでも誰にでも風は吹くのに、余計なことをしているから少し間に合わなかったり、途中で諦めるから風が吹いた時にそこに居ない。実際にゴッホは間が悪い。

僕が知っているだけでも、好きになった女性にはその気がなかったり、パリに出てきたら印象派展が終わってたり。人生に「~だったら」はないけれど、何んといっても世に出る前に、生きることに飽きてしまった。画家として認められるには10年という歳月は短かかったから、生前に彼の絵が売れたのはせいぜい数枚程度だ。

そんなゴッホの真ん中に“信仰心”があったのは恐らく間違いないと思うのだけれど、心の不安定なゴッホは信じるモノさえ揺れ動く。本来であれば、信仰的に自死は禁じられていたはずだから、最期にゴッホが信じていたのは「自然」そのものではなかったのかという気がしてならない。時には激しく時には穏やかに、風のように生きて風のように去っていった。

馬鈴薯を食べる人々

パリに出る前のゴッホの作品は、例えば『馬鈴薯を食べる人々』(1885年/ゴッホ美術館)のように、バルビゾン派の流れを汲む(ゴッホの地元)ハーグ派の影響を受けているから、『ひまわり』とは比べものにならないくらい暗い色調だ。

ひまわり

しかも、ジャガイモを食べているゴツゴツした手がまさにそれを収穫した手であることを表現しているのは、働くことを尊ぶゴッホらしい作品だ。もちろん、本人は仕上がりにとても満足していたのだけれど、時代は印象派のような明るい作品を欲していたので、人生を通じてほぼ唯一の理解者であったとされる実弟のテオからさえも、批判的な感想を受けることになる。

アムステルダムに出かけたゴッホは、フェルメールフランス・ハルス、ロイスダールといった17世紀オランダ絵画黄金時代の巨匠たちの作品に触れて、ますます“今”流行っている明るい絵を頑なに拒むようになってしまう。

何故このタイミングで古典絵画に触れてしまうのか?とはいえ時代に乗れないことを“間が悪い”のだと表現することは憚られるけれど、しかし芸術への志を強くした矢先に、モデルを頼んでいた未婚の女性がたまたま妊娠してしまい、ゴッホがその相手だと疑われてしまって、その辺には厳しいカトリック教会からゴッホの絵のモデルになる事を村人たち禁じられてしまうというのだから、やっぱり“間が悪い”。モデルを雇えなくなったゴッホは、故郷オランダを去らざるを得なくなってしまう。

ゴッホはその後にパリに出て印象派と出会って、劇的に作風が明るくなるのだけれど、 その前にベルギーのアントウェルペンに寄り道をしている。ここでは、フランドルの巨匠ルーベンスに感銘を受けるのだけれど、腕前の割りに感化されるのが“大物”過ぎる気がしないでもない。

そしてもうひとつ、ゴッホが決定的に影響されるのが“ジャポネズリー(日本趣味)”だ。この時代のゴッホは、決して経済的な余裕などなく、テオからの仕送りは画材とモデル代に消えていたはずなのに、浮世絵を買い集めて自宅に飾っていたと云われている。食事もろくに摂らず、創作に没頭する姿を見たわけではないけれど、文字通り鬼気迫る勢いだったのだと思う。

ただ、この時に悪名高き“アブサン”というお酒を覚えて、ゴッホの体は衰弱してしまう。原料であるニガヨモギに幻覚作用があるという“アブサン”は、安価でアルコール度数が高く、中毒者が頻発して、後にヨーロッパ諸国で販売が禁止される。

現在流通しているモノは、当時とは成分が違うようだけれど、むかし美術アカデミーの師匠に連れられて行った新宿歌舞伎町のクラブで「アブサンをお店に頼んで仕入れてもらったから飲んでみろ」と言われてショット・グラスに運ばれた緑色のお酒を、粋がって一気に飲み干したら喉が焼けた。

「おまえは本当に酒が強いなー」なんて師匠は笑っていたけれど、当時のパリではアルコール度数が高いため角砂糖にアブサンを浸して火をつけて、それをミネラル・ウォータで薄めて飲んでいたという話は、先に教えて欲しい。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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