コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(165)ベネツィア派~芸術大国イタリアの矜持~

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大きさだけではないとはいえヴェロネーゼカナの婚礼』(1562-1563年/ルーブル美術館)の大きさは、色々なハプニングの原因にもなる。

カナの婚宴

1797年にナポレオン軍がイタリアを侵略した時には、戦利品として『カナの婚礼』を奪おうとしたけれど、あまりの大きさに作品を二つに切ってパリまで運んで再び縫い合わせたらしい。しかも、ナポレオン失脚後には、略奪された美術品としてイタリアが返還を求めたけれど、今度も大きさを理由にフランスが返還を拒否した。

The Feast in the House of Levi by Paolo Veronese edited 2
「レヴィ家の饗宴」/image via wikipedia

ただそれはきっと嘘で、教会や王侯貴族に背いたこの気さくな作品を、市民社会を標榜したフランスとして、どうしても所有していたかったんじゃないかと僕が思っているのは、無理筋を通したフランスが、その後の戦争のたびに『カナの婚礼』を安全な場所に転々と移して必死に守っているからだ。しかも、同じくナポレオンによって略奪された『カナの婚礼』よりも更に大きなヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』(1573年/ヴェネツィア・アカデミア美術館)はあっさりと返還されている。

一方で、一度切られてしまった作品がさらに傷つくことを恐れたイタリアは、嘘だと知りつつフランスの言い分を聞き入れたのだから、芸術に対する民度が知れる。もっとも『レヴィ家の饗宴』を返還した理由は、作品にまつわる物語があまりにも“刺激的”で、フランスも持て余したのかもしれない。恐らく世界最大級の『レヴィ家の饗宴』も大きさだけではなく『カナの婚礼』を凌ぐ物語をいくつも含んでいる。

ベッリーニ、ジョルジョーネティツィアーノティントレットというヴェネツィア絵画の継承者としての直接の師弟関係はないものの、今ではヴェネツィア派を代表する画家にヴェロネーゼを数えることの理由のひとつとして、そもそも『最後の晩餐』のタイトルで描かれたこの作品は、火災で焼失してしまったティツィアーノの作品の換わりに依頼された。ヴェネツィアの巨匠ティツィアーノも晩年はスペイン王フェリペ2世のほぼ専属画家として活動していたという理由があるとはいえ、ヴェネツィアを代表するカトリック教会がヴェロネーゼを認めていたということに他ならない。

何故、聖書の中でももっとも有名な話を題材にした『最後の晩餐』が『レヴィ家の饗宴』というタイトルに変更されたのかという話が、良くも悪くもこの作品が知る人ぞ知る理由にもなっている。

ヴェロネーゼは『カナの婚礼』の時とは違って、依頼主からできるだけ多くの人物を盛大に描いてくれとは頼まれていなかったようだけれど、『レヴィ家の饗宴』にも結構な人数を画面に登場させている。ただ、イエス・キリスト最期の聖なる晩餐に、いるはずのない登場人物がたくさんいることが大問題になる。

糾弾したのはヴェネツィアから遠く離れていたはずのローマ・カトリック教会だ。ティツィアーノの活躍によって、アドリア海の干潟を埋め立てた辺境のヴェネツィア美術の評判が、遥かローマまで届いていたのもあるだろうけれど、時は宗教改革によってプロテスタントによって圧され気味だったカトリック教会がイエズス会を先頭に“対抗”宗教改革の気炎を上げていた時代。

自らの改革は、司祭の再教育といった正の側面も持っていたけれど、修道会には厳格な規律を求め、世俗化の浄化も行われていた。特にカトリック以外を異端として激しく攻撃した。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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