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【コラム】美術の皮膚(119)「ハプスブルグ~600年の栄華~」

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好戦的なバイエルン家と対照的に、もうひとつのゲルマン系の雄ハプスブルグ家は、本人たち曰く「戦争は他に任せておけ」と言って戦いを好まなかったから、その兵隊たちがうっかり小国スイスに踏み込んで、勇猛な農民軍に蹴散らされたのは至極当たり前のことかもしれない。

でも、そんなハプスブルグは、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が消滅するまで600年近くも続き、それどころか、フランドルを含むネーデルラント(今のオランダ)17州を統治した。

戦争を好まない一族が、どうやって戦争の大陸を生き抜いたのか?気になるのはきっと僕だけではないと思う。結論から言うと、名門ハプスブルグは多産の家系であったらしい。そして、その先祖代々の特徴を活かして、ある意味平和的に婚姻関係を結ぶことによって、脈々と勢力を伸ばしていったと云われている。意味は全く違うけれどスイスと同じ「血の輸出」だ。

元々は、フランク人がライン川中域に出自を持つのに対して、スイス北東部のライン川上流に住む豪族たちだった。東フランク(神聖ローマ帝国/ドイツ)との国境で緩衝地帯を守る役目を担っていたけれど、ルドルフ1世がオーストリアへと領土を広げ、神聖ローマ帝国の皇帝位に就いたところから、その歴史が始まっている。

それも、神聖ローマ帝国の覇権争いが激化して、それでは小国スイス領主のルドルフ1世を皇帝にしておけば、なんだか丸く収まるんじゃないかと、当時の猛者たちが考えたんじゃないかと思ったりもする。そして彼らの意に反してルドルフ1世は、みるみる神聖ローマ帝国を強大なものにしていった。

そう考えると「うっかり小国スイスに踏み込んだ」なんて言ってしまったけれど、(116)「ハプスブルグ~スイス人最強説~」でもご紹介したように、自分たちの故郷が交通の要衝として栄え、自治権を手に入れたのを見過ごすわけにはいかなかったのかもしれない。

その後に西ローマ帝国の後継としてハプスブルグ家は、中世から20世紀まで、オーストリアを拠点に、スペイン、ナポリ(南イタリア)、トスカーナ(北イタリア)、ボヘミアン王国(チェコ)、ハンガリー王国を支配下に治め、アルブレヒト2世(在位1438~1439年)からはハプスブルグ家の世襲が始まり、一度だけバイエルン家に皇帝位を譲ったけれど、フランツ2世(在位1792~1806年)までその栄華は続く。

途中、マクシミリアン1世(在位1493~1519年)に至っては、それまで皇帝位の戴冠は必ずローマに赴くのが慣例になっていたのに、もはやそれさえ省略して皇帝に就いているから、西ローマ帝国でも神聖ローマ帝国でもなんでもなくて、もはやハプスブルグ帝国が確立された。

特に、16世紀カール5世の時代(1519~1556年)には、その領土の広さから「陽の沈まぬ帝国」とまで称されたハプスブルグだけれど、婚姻関係を結んである意味では平和的に領土を拡大していったから、血なまぐさいドラマには縁遠く、その勢力や知名度に比べて、ヨーロッパ史に登場する機会は少ない。

その代わりではないだろうけれど、ハプスブルグ家の皇帝たちは芸術をこよなく愛し、歴代の皇帝は多くの画家たちを宮廷画家として庇護した。マクシミリアン1世(在位1493~1519年)は、北方ルネサンスを代表する巨匠(独)アルブレヒト・デューラー(1471~1528)を、カール5世(在位1519~1556年)は、(伊)ティツィアーノを、異才の画家(伊)アルチンボルド(1527~1593)に至っては、フェルディナント1世(在位1556~1564年)、マクシミリアン2世(在位1564~1576年)、ルドルフ2世(在位1576~1612年)と三代に渡って仕えた。

眠るヴィーナス
眠るヴィーナス」 ジョルジョーネ

特にルドルフ2世は、デューラーなどの北方絵画だけではなく、ルネサンス美術を一気に洗練させ、ベネチア美術の至宝とまで云われた(伊)ジョルジョーネ(1476~1510)の作品群までコレクションしていたから、当時のプラハは彼の手によってウィーンから移された宮廷を中心に、ヨーロッパを代表する文化都市として発展した。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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