コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(107)「世紀末芸術~千々に乱れてまた重なる混沌~」

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特にアカデミックな根拠もなしに自由過ぎた“ラファエロ前派”の流れを受けたクリムトが、時代のすべてを飲み込んだブラック・ホールのようだとお叱り覚悟で例えたけれど、実はやがて蒸発すると云われているブラックホールと違うのは、その周りから(墺)オスカー・ココシュカ(1886~1980)、(墺)エゴン・シーレ(1890~1918)といった表現主義の画家たちだけでなく、「装飾は犯罪である」とまで言い切った近代建築の先駆(墺)アドルフ・ロース(1870~1933)までもが誕生した。

草上の昼食

それどころか、画家の個人的な心情で徹底的に“描きたいものを描く”ことの成功は、 (仏)エドゥワール・マネ(1832~1883)『草上の昼食』(1863年/オルセー美術館)よりも激しく、(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)『アヴィニヨンの娘たち』(1907年/ニューヨーク近代美術館)よりも先に、絵画に必須と云われた“主題”の終焉を宣言したのではないかと思う。

Les Demoiselles d Avignon
アヴィニヨンの娘たち」 / image via wikipedia

お叱り覚悟で言えば、まさにアカデミックな後付けの理屈ではなくて、創作そのものに意味があるとする“現代アート”の萌芽という(ウィリアム・モリスの言う)“塵”が、飛沫となって潜んでいたからこそ、“世紀末”を乗り越えて、新しい美術の波が訪れたのだと言っても過言ではない気さえする。

さらにお叱り覚悟で勝手な妄想をすれば、やがて“創作そのものに意味がある”ことを拡大解釈して、何でもかんでも“アート”扱いした20世紀初頭の狂騒が、“第一次世界大戦(1914年~1918年)”の戦禍を逃れてニュー・ヨークに渡った(仏)マルセル・デュシヤン(1887~1968)『泉』(1917年/消失)によって皮肉られたように、やがて“自由”によく似た“自分勝手”な芸術のカウンターとして、まさに現在の「コンテクストを重視した」“コンテンポラリー・アート”の誕生を促したと考えれば個人的には腑に落ちる。

Izumi
「泉」マルセル・デュシャン / image via Wikipedia

もちろん、そのどちらに優劣をつけるつもりなど毛頭ないけれど、人類の歴史から消えることのない“美術”というメディアの持つ“普遍性”は、何億円の絵だろうが、何百年前の絵だろうが、画家だからだとか、有名人だからとかには関係なく、たったその時代の“人間”が描いているということだろう。

そう考えると、クリムトの絶筆のひとつ『花嫁』(1917~1918年*未完成/オーストリア絵画館)のモデルは、最期に名前を呼んだ“エミーリエ”ではなく、クリムトが“ファム・ファタール(運命の女性)”を探すきっかけとなった、最初の失恋の相手“アルマ”であって欲しいと思うのは、少し勝手が過ぎるかもしれないけれど。

花嫁

とはいえ、“ラファエル前派”やクリムトの“耽美主義”は、個人の美意識の押しつけに感じてしまうから、好きな人は好きで良いし、僕はどうにも好きではないし、それは鑑賞者の自由であると思う訳で、そこにこそ価値があるのだと思う。それでもこれだけ人気があるのだから、むしろ僕が“へそ曲がり”なんだとも思う。

ただ、同じ時代を生きて“世紀末”を描いた画家ならば、個人的なことを言えば圧倒的に(仏)アンリ・トゥールーズ=ロートレック(1864~1901)の作品にこそ、時代の空気を感じてしまう。なんなら彼こそが“世紀末”を代表する画家だと言い切ってしまいたい。でも、36歳の若さで夭折した彼が、20世紀をほんの少ししか生きていないからという訳じゃない。

油彩画家としては“ポスト印象派”、ポスター画家としては“アール・ヌーヴォー”の系譜に分類されるから、“世紀末芸術”の範疇に入れられることは少ないけれど、“へそ曲がり”なので許して頂きたい。ポスターを芸術の域にまで高めたことで、絶大な功績を認められているけれど、それ以前には油彩画で、退廃的な“世紀末”を、エレガントにそして見事に描いている。

フランスでも有数の裕福な伯爵家に生まれながら、身体の障害によって父親から疎ましがられたことによって、本人も“デカダンス”な生活に溺れていったことは有名だけれど、だからこそ生まれた“弱者への共感”は、“世紀末”の底辺で生きる女性たちに向けられた眼差しによって、“踊り子”や“洗濯女”、“娼婦”たちの赤裸々な暮らしを描いた作品として表現されている。

『ベッドで』(1893年/オルセー美術館)では、レズビアンの娼婦たちの安らかな寝顔を描いていて、本人は無類の女性好きだったようだけれど、キリスト教的には禁忌されている同性愛についても肝要であったらしい。

Inbed
ベッドで」 / image via wikiart

実際に、19世紀末を代表する戯曲「サロメ」の著者オスカー・ワイルドが、男色の罪で糾弾され時には、積極的な支援をしたらしい。「何が悪いんだ!」とまで言ったかどうかは不明だけれど。

ロートレックは、前述したように1888年から“自由美学展”の前身でもあるベルギーの“20人展(レ・ヴァン)”や、後期印象派の画家たちが主催した“パリ・アンデパンダン(独立)展”に出品している。

既に画家としても成功していて、実家の財産で生活に困っていなかった彼が、いくら入り浸っていたとはいえ、キャバレー“ムーラン・ルージュ”から依頼された、当時は(油彩画に比べて)格下だったポスター画を二つ返事で描いてみせたのも、恐らくジョン・ラスキンの思想の“飛沫”として、“ラファエル前派”や、同世代のクリムトたちの自由な創作活動の成功と、それによって醸し出されていた時代の空気が、背中を押したことは間違いないのだと思う。実に“世紀末”の混沌は、千々に乱れて、そしてまた重なり合っているように見える。

(了)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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