コラム, 美術の皮膚

【コラム】美術の皮膚(129)ゴッホとゴーギャン~奈落の底の入口~

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弟のテオを頼ったとはいえ、せっかく花の都パリに行く機会を得たゴッホだけれど、うっかりベルギーに寄り道をしている。“うっかり”というのは、ゴッホがパリに着いた1886年2月は、当時のパリでようやく陽の目を浴びていた印象派が、スーラゴーギャンといった若手画家の参加を巡って分裂し始めていた頃だ。

同年5月には第8回印象派展は開催されるのだけれど、それは最後の印象派展で、そこにゴッホの名前はない。ゴッホが自ら印象派たちの活動に同意できず参加しなかったのではなくて、僕はやっぱり、彼の”間の悪さ”だと思えて仕方がない。

恐らくだけれど、ゴッホが自ら参加しなかった訳ではなくて、彼がパリに着いた時に、既に混乱していた印象派の中にゴッホの席はなかったのだと思うし、何より3か月後に開催される印象派展に出品する絵をゴッホが創作できなかったのだと思う。それまでに描いた作品は、オランダから逃げるように引っ越した時に、母親によって二束三文で処分されてしまっているのだからやっぱり“間が悪い”。

そしてもうひとつ、ゴッホが印象派やポスト印象派の画家たちと、決して袂を分かったのではないと思う理由は、両者共に日本の浮世絵に影響を受けたジャポニスムの画家であっただけではなくて、明らかにゴッホの画風がポスト印象派の画家たちとの出会いで明るくなっているからだ。

まるで、憧れていた巨匠たちのように描けないコンプレックスから解放されて、今の自分の作品を肯定されているような幸福感を感じているようにさえ見えるのは、僕の思い込みかもしれないけれど、実際に南仏アルルに画家の桃源郷を作ろうとしたゴッホは、印象派やポスト印象派の画家たちを誘っている。

特にジャポネズリー(日本趣味)への興味は、(仏)エミール・ベルナール(1868~1941)に出会ってから、加速度的に高まった。ゴッホを介して知り合ったゴーギャンと共に、対象物の外観と、その時の画家の内面、そして色と線といった美術の要素を“総合的”に表現しなければならないという“総合主義”を立ち上げたベルナールは、その手法として『草地のブルターニュの女たち』(1888年)のように、太い輪郭線で囲んだ平坦な画面で描く“クロワゾニスム”を採っているけれど、それはまさしく色で表現する印象派に対抗する、線描の浮世絵だ。

Émile Bernard 1888 08 Breton Women in the Meadow Le Pardon de Pont Aven
「草地のブルターニュの女たち」/ image via wikipedia

色に、線に、感情に、聖書に、神話に、何かひとつにだけこだわることを否定した“総合主義”は、自由な創作を可能にしたから、近現代の美術に大きな影響を遺したけれど、それほど美術史の中で大きく扱われないのは、その中心人物のひとりであったと云われているゴーギャンの傲岸不遜な生き様のせいであったと、ひたすらゴーギャンを愛する人にはお叱り頂くかもしれないけれど、ちょっと思っている。

もちろん、彼の生き様と作品の良し悪しは別だという前提なのだけれど、ここから先はゴーギャンが好きな人には読んで欲しくない。しかし、読んで頂ければ、僕の言いたいことも少しばかりご理解頂けるとも思う。個人的には“総合主義”の中心人物でさえないと思っている。

株式の仲介で成功していた傍ら趣味で絵を描いていたゴーギャンは、絵の先生でもある印象派の長老ピサロに誘われて、第4回印象展(1879年)に参加した。もちろん片手間で描いた作品は評価されないけれど、その後も1882年の第7回まで出品し続けるのだから、別に才能を見出した訳でもないのに、小銭を持っているゴーギャンで頭数を稼ごうとしたピサロの人が悪いんじゃないかと言うと過言だけれど、実際にピサロに唆されたゴーギャンの人生は、この後に散々なことになる。

Paulgogan
image via wikipedia

他人の人生の幸不幸を容易に慮ることはできないけれど、2015年の個人間取引で『いつ結婚するの?』(1892年)が当時の絵画最高額3億ドルで取引されたとしても、本人が遺した数々の不満に塗れた文章を考えれば、不幸であったと断言しても問題はないと思う。だいたい彼の作品がようやく評価されたのは、不幸のどん底で死んでから100年以上も経ってからの話だ。

つづく

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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