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【コラム】美術の皮膚(40)「花の都フィレンツェの花の画家~万能の天才のライバル~」

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21歳の時にヴェロッキオの工房に移ったボッティチェッリが出会ったのは、ヴィンチ村からやって来た後に万能の天才と称されることになる14歳のレオナルド・ダ・ヴィンチだった。ダ・ヴィンチは、7歳年上のボッティチェリの影響を受けながらも、一方でライバル心を抱くから、二人は切磋琢磨しながら一緒に仕事をすることになる。

僕がレオナルド・ダ・ヴィンチを、ダ・ヴィンチと略すのを少しだけ躊躇う理由は、ダ・ヴィンチは姓ではなくて「ヴィンチ村の」という意味だから。ヴィンチ村はフィレンツェから50kmとほど離れた、丘陵地帯にオリーブやぶどうの畑が広がるのどかな村だ。レオナルド・ダ・ヴィンチの生家の他に「レオナルド美術館」もあって、そこには絵画の他にも“ヘリコプター”や“投石機”といった彼の発明品の数々が展示されていた。

それにしても、少年期とはいえ万能の天才にライバル視されているのだから、やっぱりボッティチェッリは三大巨匠に数えられて然るべき画家だと思う。

ヴェロッキオの工房には、絵画の制作だけでなく彫刻や建築、家具の制作まで注文が殺到する。メディチ家の依頼で建てた「サン・ロレンツォ教会」には、歴代の当主が眠っていて、祭壇の手前に眠る“フィレンツェの父”コジモの石棺の制作の制作に、二人は参加したと云われている。

他にも、ルネサンス期最大の建築家ブルネレスキによって設計され、600年以上をかけて19世紀に完成した「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア)聖堂」を象徴する「ドゥオーモ」(直径:42mで石積み建築のドームとしては世界最大)の頂上にあるブロンズの球体と十字架の制作にも参加したりと、二人は忙しく仕事をこなすけれど、下働きでは少しの給金しかもらえずに、実は「トレ・ラーネ(三匹の蛙)」という、フィレンツェでよく食べられるカエル料理のレストランを共同経営していたらしい。

ところが、冗談好きで友だちの多いボッティチェリと、気難しく頑固だったダ・ヴィンチは性格が合わずに仲違いして、お店は閉店したようだけど、当時の彼らの作品の違いを見れば上手くいかないのは僕でも判る。

受胎告知

受胎告知レオナルド・ダ・ヴィンチ(ウフィツィ美術館/1472~1475年)は、丁寧な筆致で人物の輪郭はぼかされ、厳密な遠近法で風景が描かれている。

一方、若きボッティチェリの名を一躍高めた『フォルテッツア(剛毅)』サンドロ・ボッティチェッリ(ウフィツィ美術館蔵/1470年)は、持ち物や衣装の装飾をくっきりとした線描で繊細に描いているから、まったく志向するものが逆だ。

実際に見えるものを“正確”に描こうとして科学的な絵画技法を身に着けたレオナルド・ダ・ヴィンチは、ボッティチェッリの作品を「絵画を構成するあらゆる要素を等しく愛さない人は万能とは言えない」と批判する。するとボッティチェリは「私はおまえの描けない絵画を描く」と反論し、作品の主題に忠実にデザイン的な装飾を用いて“美しさ”を表現した。

それぞれが独自の手法で新しい芸術を模索していたけれど、ルネサンスの立役者にして時の権力者ロレンツォ・デ・メディチが寵愛したのは、万能の天才ではなくボッティチェッリの方だった。

ロレンツォは、知的で陽気なボッティチェッリの人格も含め、生涯を通じて良き友人として庇護するから、ダ・ヴィンチはますますライバル心を募らせる。

メディチ家の繁栄と共にルネサンスの頂点を極めたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチではなくボッティチェッリだったのだから「ルネサンスの三大巨匠」に数えたいのだけれど、それは歴史が許してくれない。

しかも、既に選ばれている3人の誰を退かせるのか、僕には見当もつかない。「ミケランジェロの本業は彫刻家だから外しちゃおうか」なんて軽はずみなことも言えない。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター

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