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【コラム】美術の皮膚(28)「近現代のご長寿画家たち④~孤高の世界主義者(コスモポリタン)オスカー・ココシュカまで~」

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僕のたった好き嫌いでなく、機械的に「ご長寿」の画家たちをリストアップしてご紹介していると思っていたけれど、ここにきて自分で気付いたのは、好きな画家へのコメントが、そうでもない画家に比べて圧倒的に長いことだ。なんなら説明の長い分だけその画家を好きなのかもしれない…皆さんは、もうとっくに気付いていらっしゃったかもしれないと思うと、お恥ずかしいやら、申し訳ないやらだけれど、何卒ご容赦頂きたい。

85歳(伊)カルロ・カルラ(1881~1966)

カルラの画風は、時代に翻弄されるように目まぐるしく変遷した。

1910年には産業革命やイタリア美術界の閉塞感を背景に、伝統的な芸術を徹底的に否定・破壊して新時代の機械美やスピード感といったダイナミズムを重要視する「未来派」に参加したものの、ルネサンス期の巨匠の現代的な再解釈に挑み、「古くて素朴」の意味を持つ「アルカイック美術」や、非西洋的「プリミティブ(原始)美術」へと転向。

1916年に(伊)ジョルジオ・デ・キリコ(1888~1978)と出会って、目に見える事物の背後にある神秘の探求を暗示する「形而上絵画」を描くようになるけれど、すぐに目指すものの違いからキリコと決別して、1920年代にはルネサンス美術に規範を求める写実的な「ノヴェチェント運動」に参加した。

残念ながら「ノヴェチェント運動」は反前衛や愛国主義を求心力にしたため、ムッソリーニの時代にはファシズムのプロパガンダに利用されてしまうことになる。迷走のように見えるカルラの変節だけれど、僕は恐らく「伝統」と「今」の連関性を求めていたのではないかと思っている。

81歳(仏)ジョルジュ・ブラック(1882~1963)

ピカソと共に現代美術の礎となった「キュビズム」の創始者。晩年にキュビズムから離れたこともあって、ピカソに比べて圧倒的に知名度は低いけれど、お互いに啓蒙しあって、キュビズムを完成させたのは事実だ。

ブラックの初期の作品は印象派だったけれど、1905年にフォーヴィズムの作品に感銘を受けて鮮やかな色彩の作品を描き成功する。

しかし、1907年に「セザンヌ回顧展」でキュビズムに繋がるアイデアを得ると、同年に前衛芸術の擁護者でもある詩人(伊)ギヨーム・アポリネールにピカソを紹介されて、彼のアトリエで『アヴィニヨンの娘たち』(ニューヨーク近代美術館/1907)を知り、その美術的な意義にいち早く気づいて、共にキュビズムを創始していくことになる。

セザンヌ、ピカソに影響を受けた、『レスタックの家々』(ベルン美術館/1908)は、マティスから「小さなキューブ」と評されて、キュビズムの語源になったとも云われている。

特に1909年に共同作業を始めてから、両者の作品に区別がつかないとも云われているほど、ピカソとの関係は密接だけれど、実は二人には明確な違いも見られる。ピカソが時間の経過による複数の視点に関心を持っていたのに対して、ブラックは静止した被写体を違う位置から見る(セザンヌ的な)複数の視点に関心を持っていた。

94歳(墺)オスカー・ココシュカ(1886~1980)

Kurimuto

(墺)グスタフ・クリムト(1862~1918)、(墺)エゴン・シーレ(1890~1918)と並んで近代オーストリアを代表する画家の一人。

(独)哲学者ニーチェの思想に影響を受けて、「印象派」とは対極の、感情の表現を創作の中心に置く「表現主義」に分類されることが多いけれど、表現主義の代表的運動である「青騎士」や「ブリュッケ」などのグループには参加せずに独自の道を進んだと云われている。でも、実は暴力的な表現だけじゃなくて自身の奇行でも有名だから、仲間に入れてもらえなかったのかもしれない。

さらにナチスに「退廃芸術」と指定されてしまって、自身はロンドンに逃げるように移住したけれど、その後も貧困の中で世界を転々として、リスト中3番目の長生きで創作を続けた。

ヒットラーが巻き起こした戦争は、世界を巻き込んで悲惨な状況を作ったけれど、一時は画家を目指して古典美術に憧れて凡庸な風景画を描いた独裁者は、新進気鋭の才能に嫉妬し、それを「退廃芸術」として唾棄することで、美術の世界にも多大な損失を与えてしまった。

(つづく)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター

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