コラム

【コラム】パリに愛された日本人 藤田嗣治(レオナール・フジタ)

18世紀終わりから19世紀半ばまで続いた市民革命後のフランスでは「ベル・エポック(美しき良き時代)」と呼ばれる、市民社会の時代が訪れます。美術の世界でも、誰かの庇護の下で制約されていた時代とは違った、多様な価値観を反映する印象派の画家たちが活躍して、華やかな市民文化が花開きました。

とはいえ、社会の変革に同調するように美術も変わってきたものの、やはり基本的な部分での権威は存在し続けていて、絵画には明確なテーマが必要だという前提の下では、歴史・宗教画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の順番で、暗黙の格付けは残っていました。

20世紀に入って(西)パブロ・ピカソ(1881~1973)が『アヴィニヨンの娘たち』(1907年)を発表すると、いよいよ“形にも素材にも縛られない”モダン・アートが登場します。「何を描くかではなく、描くこと自体が意味を持つ」というのですから、聖書や神話の引用でしか描けなかった時代を考えると、権威からの“解放”は此処に極まったと言っても過言ではないでしょう。

実際に、解放された後には様々な画派が乱立して、その混沌とした状況を一括りに“20世紀美術”と呼ぶことさえあります。

それを象徴するのが「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれた画家たちです。“派”と言っても「放浪的に共同生活をしながら19世紀のパリで活動した外国人画家」を指すだけなので、特定の美術理論を意味するわけではなく、むしろどの画派にも属さずに、それぞれの個性を発揮した作品を創作しました。

同時代に「キュビズム」という美術理論で、一世を風靡していたピカソや(仏)ブラック(1882~1963)が、セーヌ川右岸の「洗濯船」に集ったのに対して、左岸に位置するモンパルナスの「蜂の巣」という共同アトリエでは、(伊)アメデオ・モディリアーニ(1884~1920)、(露)マルク・シャガール(1887~1985)、(露)シャイム・スーティン(1893~1943)、(波)モイズ・キスリング(1891~1953)、(勃)ジュール・パスキン(1885~1930)といった、世界中から集まった画家たちが、共に暮らしながら切磋琢磨していたのです。その中心に、パリの寵児と呼ばれた(日)藤田嗣治(1886~1968)はいました。

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藤田嗣治 / image via wikipedia

人生の半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得することになる藤田は、東京新宿の医師の家に生まれました。父の藤田嗣章は、後に森鴎外の後任として陸軍軍医総監を務めることになるのですが、この出自と時代が、彼の人生を翻弄していきます。

高校を卒業する頃になると、藤田は画家を目指してパリに留学したいと思うようになりますが、森鴎外の薦めもあって、現在の東京芸術大学西洋画科に進学します。その頃の日本では、既にフランス留学から帰国していた黒田清輝(1866~1924)に代表される、印象派や写実主義が中心となっていたため、藤田は自分の描きたい絵を描けずに対立し、出品した美術展には、ことごとく落選して、日本での活動に限界を感じると、1913年に念願だったパリに渡って、モンパルナスの安アパートに居を構えます。

隣室に住んでいたモディリアーニを通じて「エコール・ド・パリ」の画家たちと親交を結び、印象派や写実主義からの“解放”を志向する新しい20世紀絵画の息吹に触れると、日本で感じていた閉塞感から解放されて、自由闊達な創作を始めます。翌年1914年に第一次世界大戦が勃発すると“ベル・エポック”も終わり、戦時下のパリでは絵を描くどころではなくなるのですが、貧窮の中でも創作を続けた藤田に、今度は戦後の好景気が追い風になります。

この頃に確立された、面相筆を使った独特の描線や、乳白色を使った裸婦像がパリで人気を博し、「エコール・ド・パリ」の中で、最も成功した画家の一人になります。また、興に乗ると安来節を踊る明るい性格の藤田は、Foujitaをもじった“FouFou(お調子者)”と呼ばれるほど愛されて、フランスでは知らない人がいないほどだったとも云われています。それどころか、藤田の名声は大陸を渡り、アルゼンチンの個展には5万人を超える人々が殺到しました。

南米での大成功の後に、日本に一時帰国した藤田が東京で初めて個展を開いたのは、銀座の日動画廊でした。僕が仲良くさせてもらっている創業家の方には、「創業6年目を迎えた初代は、藤田先生にパリでの個展のスタイルを、案内状からレセプションの開き方まで丁寧に手ほどきを受けて、その後の我々洋画商としての歴史にも、大きく影響をしているのです」と聞きました。貴重なフジタの絵を何点も、画廊で拝見したことがあります。

再びパリに戻った藤田を、今度は第二次世界大戦が襲います。日本への帰国を余儀なくされた藤田は(父親と同じ)陸軍の美術協会理事長に就きます。フランスでの成功で、母国の要職に就いたことは、ある意味で“故郷に錦を飾った”ことにはなるのでしょうが、国威高揚のための戦争画の制作や戦地の訪問が、終戦後に“戦争協力者”として糾弾されることになるのです。

占領軍からの追求もさることながら、国内の美術界からもスケープ・ゴートにされた藤田は、またしても日本に嫌気がさして「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」と捨て台詞を残し、フランスに旅立つと、1955年にはフランス国籍を取得して、レオナール・フジタ(フランス帰化後の名前)は再び日本に戻ることはありませんでした。

世界的な名声に比べて、日本での知名度が低い理由は、恐らくこの一連の騒動が原因なのかもしれません。生前に複数の勲章を海外で送られている藤田ですが、世界での活躍に日本から勲一等瑞宝章が送られたのは、彼の没後でした。

何度も日本を離れた藤田ですが、僕は決して彼が日本を嫌っていたとは思えません。パリでの成功を収めた作品は、日本画に使われる“面相筆”が使われていますし、長らく謎であった彼独特の“乳白色”の秘密が、実は日本製の“ベビー・パウダー”だっだっと近年の研究で解明されています。異国の地であっても日本を忘れなかった藤田は、母国を裏切ったのではなく、母国に裏切られた傷心の中で生きたのだと思います。

そして、没後50年を迎えて、藤田の美術人生の出発点でもある東京・上野で大回顧展が開催され、フランスを魅了した“乳白色”の裸婦像や、彼が得意とする“猫”の絵をはじめとして、世界中から100点以上の作品が集められています。

藤田と親交のあったピカソが拓いたモダン・アートに連なるコンテンポラリー・アートで、数々の日本人画家が活躍する今、藤田の作品を堪能できる機会があるのは、彼が望んだ日本美術が「国際水準に到達」した証であるのかもしれません。

没後50年 藤田嗣治展
東京都美術館
2018年7月31日(火)~10月8日(月・祝)

高柳茂樹
一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター
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