19世紀後半のパリに花開いた印象派。その成立には葛飾北斎が深い影響を与えています。なぜ江戸の北斎が?その理由を知るために、歴史的な背景を探ってみましょう。
19世紀の日本は、いわゆる文化文政時代(1804年-1830年)。町民文化の全盛期であり、多色刷りの浮世絵「錦絵」が確立した時代でした。そのころ北斎は、曲亭馬琴『椿説弓張月』の挿絵や『冨嶽三十六景』などの作品を手掛けていました。
ドイツ出身の医師・植物学者のシーボルトは、ちょうどこの時代にオランダ商館医として来日し、長崎の出島に滞在していたのです(1823年-1828年)。
シーボルトは、オランダ商館長の江戸参府に随行し、日本の地理、植生、天文などの研究を行い、江戸の学者や北斎とも交流を持ちました。しかし、これが事件を引き起こします。帰国時に先発した船が難破し、そこから幕府禁制の日本地図が見つかったことで、シーボルトは国外追放の憂き目にあうのです(シーボルト事件)。
しかし、果たしてオランダに送られていたのは地図だけだったのでしょうか。
シーボルトは、日本から動植物標本や美術品、日用品まであらゆるものを持ち帰っていました。そこには北斎の絵画も多くあり、昨年オランダのライデン国立民族博物館所蔵の6枚の絵が北斎の肉筆画であると判明しています。
シーボルトは、日本に関するあらゆる情報を集め、のちに全6巻からなる百科全書『日本』を著しています。ロシア皇帝やアメリカのペリー提督に外交のアドバイスをするなど、ヨーロッパ一の日本通として、その名は国外にまで鳴り響いていたのです。彼が持ち帰ったコレクションはフランスにも多数渡り、この地の愛好家たちを熱狂させました。
一方、文化文政時代の頃のフランスでは、デッサンを重視する新古典主義と、色彩を重視するロマン主義が対立していました。また、アカデミー主導の美術から、市民階級が担う美術への過渡期にもあたり、アカデミックな画壇への抵抗勢力である写実主義やバルビゾン派らが台頭してきていた時期でもあります。
このようにフランスの画壇が新しい時代へと変わっていくなかで、1856年に画家・版画家ブラックモンは、輸送品の緩衝材として用いられていた『北斎漫画』を「発見」し、それに強いインパクトを受けると、早速北斎をモチーフとしたテーブルウェアを制作・発表しました。印象派の先駆けとなったマネやドガもまた、北斎の影響とは無縁ではありませんでした。
その後も、モネやゴーギャンなどの印象派の画家たちが、こぞって北斎の構図や人体の動きを取り入れた作品を描いています。
北斎の影響は、印象派以降の「ベル・エポック」と言われる時代の画家たちにまでおよびました。「ベル・エポック」は近代的な消費文化の時代。それを反映して、様々な商品、施設や興行などのポスター芸術が街を彩り、パリは「花の都」「芸術の都」と称えられました。
ポスターの人気作家であった、ロートレックやミュシャも北斎の構図やデッサンに多くを学んでいます。
日本人が憧れる印象派、そして「芸術の都パリ」の源流をたどると、そこに江戸人葛飾北斎の姿があらわれるのです。