今や、世界に誇る漫画文化は、北斎がそぞろに描いた『北斎漫画』というスケッチ本が始まりなのです。「漫画」という言葉も北斎の造語であるともいわれています。
不思議なことにこの大人気になった十五編からなる『北斎漫画』の第一遍は、名古屋の永楽屋を版元に出版が始まったのです。文化11年(1814年)、北斎55歳のときです。
江戸の北斎が、江戸一の版元、蔦屋重三郎の処からではなく、名古屋からでたということは、旅好きの北斎が旅の途中に描きとめたスケッチを名古屋の門人である牧墨遷都のところで描き上げ、永楽屋より出版されたからなのです。北斎の交遊の広さと弟子の多さを現す事象の一つでしょう。
北斎は、数多くの弟子・門人たち、子供たちのために絵手本を制作しました。その代表格が「北斎漫画」です。
この絵手本は、爆発的に売れ、十三篇まで生前に出版され、それでも人気は衰えず死後35年経った明治12年に残りの二篇が出版されています。
900ページもの中に4,000展もの画が、墨の線でデッサンスチッチされたもので、描かれているのは、神仙、山水、人物、草木、鳥獣、虫魚、器財、建物、武具などあらゆるものが写しだされています。
1856年パリの印象派の版画家フェリックス・ブラックモンが、日本の陶磁器が壊れないように梱包しているクッションの紙(版画)に使用されている『北斎漫画』を発見しました。
ブラックモンは、友人であるマネやドガやモネたちに伝え、『北斎漫画』は印象派の優秀な画家たちの目に触れるようになりました。それがきっかけになって「ジャポニスム」という芸術の流れが生み出されたのです。
印象派が19世紀最大の美術の流れを造り出したといわれていますが、その根底には『北斎漫画』があったということは、日本人にとってとても素敵な出来事ですね。しかも、北斎は、「19世紀最大の芸術家」と西欧では評しているのです。
江戸の絵師北斎は、日本や東洋の国より遥か彼方の西洋で大きく羽ばたき、、知らぬ人がいないと言われる程、有名になっていたのです。
後に「画狂老人卍」と名乗った北斎の「驚嘆すべき眼」は遠く西洋のはずれの地さえ見据えていたのかもしれませんね。
【続編は今後公開予定】
・【コラム】行動派の旅の絵師、北斎 -常に高みを目指し続け、精進を続けた- / 藤 ひさし
・【コラム】北斎は隠密だったか? - 幕府の危険人物である攘夷派の監視? / 藤 ひさし