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世紀末パリを彩った儚き花(後編):アルフォンス・ミュシャ/「ジスモンダ」

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ジスモンダ
アルフォンス・ミュシャ「ジスモンダ」 / image via wikipedia

花や植物を配して自由な曲線で描かれているミュシャの作品には、彼の故郷である東欧風の美女が登場していて、ジャポニズムとビサンティン文化が融合しているのですから、まさにパリの人々が見たこともない「アール・ヌーヴォー」として称賛されたのは想像に難くありませんが、ミュシャの人気を陰で支えたのが19世紀になってフルカラー印刷が可能になったリトグラフ(石版画)技術です。

木版画と違って、石板に描いた細密な絵をそのまま大きなサイズで大量に印刷できるリトグラフを使って、2mの大きさの4,000枚もの「ジスモンダ」が街中に貼られたのだから、圧巻の迫力だったに違いありません。

余談ですが、1900年に開催されたパリ万博は、合理性、効率性重視の時代に、あえて生活の中に装飾芸術を提案する「アール・ヌーヴォー」を推して、工業を中心に発展する米英独との差別化によって、国際競争力を高めようとするフランスの思惑通りに、4000万人以上の観覧客が訪れ、芸術の都パリの呼び名が定着します。

同年日本では面白いことに、西洋文化の紹介に熱心な「明星」が与謝野鉄幹主宰で創刊されて、表紙には「ジャポニスム」発の「アール・ヌーヴォー」調の絵が逆輸入されて藤島武二らによって盛んに描かれたりしていました。

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与謝野晶子『みだれ髪』表紙。イラストレーションは藤島武二。/image via wikipedia

しかし、「ベル・エポック(良き時代)」はたった四半世紀で幕を閉じます。

1914年第一次世界大戦が始まると、人間らしさを謳歌していた空気は一変して、人間は解放されると互いに殺し合う生き物だと、人間の理性を疑うダダイズムという思想が台頭してきます。しかも、華美な装飾のアールヌーヴォーは退廃的であるとさえ批判されるようになって、時代の徒花として忘れ去られていきます。

同じ時代に同じジャンルで活躍したミュシャとロートレックは、両者共に後期印象派の画家たちとも深く関わり、刺激を与え合い切磋琢磨しているのですが、美術史的にはロートレックよりミュシャの評価は劣っているようです。出身地のせいなのか、商業的に成功し過ぎたせいなのか難しいところですが、二人の晩年は対照的です。

フランス生まれのロートレックは、まさに20世紀が明けた1901年に、戦争の足音も聞かず36歳の若さで亡くなります。パリの古き良き(退廃的な)時代、多くの人々が溺れたお酒が原因でした。

一方のミュシャは、アメリカで経済的支援を取り付けると、パリを離れてオーストリア帝国支配下の故国チェコへ戻り、デザイナーではなく画家として活動します。チェコ音楽の創始者スメタナの組曲「わが祖国」に触発され、18年かけて20点の連作「スラブ叙事詩」を制作するなど、出自であるスラブ民族の愛国心を高揚させるような作品を描き始めたのです。

1918年にチェコ・スロバキア共和国が建つと、無償で国章や硬貨のデザインをするなど祖国のために尽くしますが、第二次世界大戦でナチス・ドイツがチェコ・スロヴァキアを侵略すると、愛国心を煽る危険な画家として老いたミュシャは囚われ、激しく尋問され、それが原因で、終戦による祖国の開放を聞かずに、78年の生涯を閉じています。

花のパリの街を彩った二人の画家たちは、それぞれの人生を全うしましたが、まさに二人共に、時代に翻弄され、時代と踊った、時代の証言者であったことは間違いないのだと思います。

世紀末パリを彩った儚き花(前編):アルフォンス・ミュシャ/「ジスモンダ」
国立新美術館開館10周年・チェコ文化年事業「ミュシャ展」

著者:一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター 高柳茂樹