八十五歳頃からです。北斎は、信州(長野県)の小布施に何度も出かけています。元気な画狂老人ですね。
北斎の門人であった高井鴻山(豪農・豪商、儒学者、浮世絵師)のところに行き、鴻山や文人である佐久間象山らと交友をもっていたのですが勿論、画を教えていました。
ここで北斎は多くの肉筆画を残しています。今では小布施の名所となり、信州小布施北斎館に収まっています。中でも、屋台の天井画となっている「男浪」「女浪」、そして「龍」と「鳳凰」の肉筆画は、一見に値します。これらは、風俗画でも風景画でもありません。
北斎は、江戸の情緒を写した風俗画を数多く世に出していますが、人物と風景をたくみに絡み併せ、「人物のいる風景」となっています。「男浪」「女浪」は、浪を男と女に分け自然の摂理を現しているようにも思えますし、水をデザインしたようにも見えます。
北斎は、信州の小布施でやっと自分の描きたい画をのびのびと自由に描いているように思えます。小布施の寺、岩松院でも大きな畳二十畳ほどの大きな天井画を描いています。それが「八方睨鳳凰図」です。
北斎が一人で書き上げたとは思えませんが(多分娘のお栄が手伝っていた)、北斎の卓越した画技を思う存分に発揮した力作です。
高井鴻山の記念館が北斎館の横にありますが、その邸内に北斎のアトリエが残されています。弟子でもある鴻山の肉筆画も数多くあり、なかなかの絵師でもあります。
屋敷内の押し入れの床には、「隠れ道」が掘られており、今でもみることができます。
江戸末期のこの頃、鴻山のような地方の文化人は、相当に江戸幕府から目を付けられていたようです。勿論、鴻山だけでなく、北斎も佐久間象山も、文人たちの仲間ですから当然マークされていたと思います。
佐久間象山も信州出身の江戸時代後期の兵学者、朱子学者、思想家として知られていますが、一八六四年に京都で暗殺されています。
北斎は、この時代の最高の知識人の一人ですから、信州の小布施だけでなく、旅する先々で文人たちには歓迎されたことだろうと思います。名古屋にも、大阪にも、北斎の門人は多くいましたが、その弟子たちが、確かな情報交換をして師の命を守っていたかもしれませんね。
高井鴻山の言によれば、北斎は突然訪れ、去る時も誰にも言わず、いつの間にか去っていった、とあります。小布施は北斎にとって気儘に過ごせる居心地の良いところだったのでしょう。
江戸の生活、風俗を描き、江戸の情緒の風景画を写し、怪奇と幻想を画に現し、森羅万象を描き尽し、超人北斎は、次世代に生きる私たちに何をメッセージしているのでしょう。
考えさせられますね。
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