1928年(文政11年、北斎が68歳の時)シーボルト事件が起こりました。シーボルトが5年にわたる長崎出島オランダ商館の医師としての任務を終え帰国しようとしたその時でした。
出港する直前の8月9日、嵐が長崎を襲い、シーボルトの乗るはずの船が座礁し、その船荷から日本の地図が見つかったのです。実に精妙にえがかれた86万4000分の1の日本地図で、地名や河川の名はカタカナで記入された物でした。
この地図は、江戸幕府天文方の高橋左衛門景保がシーボルトに贈ったものです。が、地図を海外に持ち出すのは最大の国犯でした。当時はすでにオランダ以外にも外国からの船がにほんに再三来航し始めていた頃でもあり、幕府も神経を尖らせていたのです。
シーボルト事件は、一大疑獄事件となり全国の蘭学者たちを震撼させることになります。シーボルトは、鎖国をしていたこの時代の国犯になってしまったのですね。
国禁を破ったということでシーボルトは、1829年12月に国外退去を命じられ寂しく日本を去ったといわれます。
国内では、シーボルト事件の取り調べは峻烈をきわめ、関係者の内23人が獄舎に繋がれ、それ以上の人々が処罰されたといわれます。勿論、天文方の高橋景保は処罰されました。
シーボルトは、日本にいた5年間に医師としての貢献度が高く国外追放だけで済んでいるのです。
シーボルトというドイツ人の医師は、オランダ東インド会社の軍医として25・6歳の頃、日本に来ましたが、大変豪快な人だったようです。三十数ヶ所の剣キズが体にあった人で、ドイツの名門大学では決闘者として知られたといわれています。
シーボルトがオランダ商館長と江戸に来た時に日本橋長崎屋で北斎と逢っていますね。この時、シーボルトから日本の男の一生と女の一生との絵も絵巻物を頼まれたといわれています。シーボルトと北斎の関わりは、それ以上に深かったとの説もあります。
シーボルト事件で北斎も奉行所に呼ばれたというのですが、北斎は住所不定の人であり、捕捉されなかったようです。
このことは北斎のおもしろい一面ですね。意識的なのか、無意識なのか、名を替え住所を変え、捕まりませんね、不思議な絵師の北斎は。
オランダの東インド会社も妙な会社で、航海時代の頃からある種のパイレーツ(海賊業)もやっていた節があります。
骸骨の旗とオランダの国旗を両方持っていたといわれ、使い分けをしていたようです。オランダという海洋国家は、それを認めていたといわれています。
シーボルトもある意味で海賊会社の軍医でスパイ活動をしていたのですね。江戸の隠密絵師、北斎と、ドイツのスパイ医師、シーボルトという顔合わせはちょっと愉快ですね。
歴史のおもしろさでしょう。
【続編は今後公開予定】
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