レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』と並んで、世界三大名画の一枚に数えられる『夜警』。
この不朽の傑作を描いたレンブラント・ファン・レインは、ヨーロッパ美術史全体を見渡しても屈指の天才です。明暗のコントラストが絶妙なドラマ性を生み出す、比類なきその作品群。
レンブラントは「光の魔術師」と讚えられ、それ以降の画家たちに決定的な影響を与えました。そんなレンブラントの人生もまた、その作品同様、栄光と凋落、明と暗のコントラスト激しいものだったのです。
若くして才能を認められたレンブラントは、オランダのアムステルダムに画塾を構えました。当時の画塾の授業料は年間2ギルダー程度であるのに、レンブラント工房の授業料は年間100ギルダー。
破格の高額にもかかわらず、当代一の画家の元で学ぼうと、弟子志願者が途切れることはありませんでした。
画家としての成功を手に入れたレンブラントは、さらに名士の娘サスキアと結婚し、上流階級の仲間入りさえ果たしたのです。
しかし、好事魔多し。若くして富と名声を手にいれたレンブラントは、悪癖を発揮します。彼は大変な浪費家だったのです。特にレンブラントが血道をあげたのが、美術工芸品のコレクションでした。
東インド会社の隆盛によって、当時のオランダはヨーロッパ屈指の富裕国でした。その富を背景に、上流階級や富裕層の間で、古今東西の名品・珍品のコレクションが一大ブームになっていたのです。
例に漏れずレンブラントもお金に糸目をつけず、オークションで常識はずれの高値をつけて次々とお目当の品を次々と競り落としました。そのため、オランダの絵画市場が混乱したとも言われています。
しかし、その勢いも長くは続きませんでした。火の車の家計をやりくりする苦労が祟ったのか、愛妻サスキアが29歳の若さでこの世を去ると、レンブラントの人生には次第に影が濃くなってゆくのです。
愛人との訴訟問題。相次ぐ子供の死。そして、破産。およそ考えられる限りの不幸が彼を襲いました。そしてついには、自慢の邸宅まで手放すことになるのです。
そんなレンブラント晩年の自画像が『使徒パウロの姿の自画像』です。本を手にこちらに目を向けるレンブラント。上方から降り注ぐ強い光に頭部を照らされて、顔の半分は影に覆われています。
辛酸を嘗め尽くしたものだけが持つ、あきらめとも悟りとも受け取れる深みのある表情。そこからは、百万の言葉にも勝る、絵画だけが語りうる人生の真実が伝わってきます。
レンブラントの不幸の多くは、彼の人間的な弱さが引き起こしたものでした。けれども、その弱さを芸術の強さに変えることができた。そこにレンブラントの天才の証があるのです。
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