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【コラム・前編】「パステル色のプライド」 エドガー・ドガ / 「アイロンをかける女たち」

アイロンをかける女たち

印象派。今でこそ魅力的に響く言葉ですが、当時は「ただの君たちの印象でしょ?」という悪口でした。当時のフランス美術界は、歴史画こそを重んじる古典主義の芸術アカデミーが支配していて、のちに第一回印象派展と呼ばれる展覧会が開かれた1874年の彼らは完全なる異端だったのです。

しかし、絵具の発展による屋外での制作や、外光の新しい表現である色彩分割による、重厚ではないけれど「明るい」タッチの印象派の絵は、徐々にではありますが人々の支持を得ていきます。そして、画商のポール・デュラン=リュエルの活躍でフランス以外、特にアメリカの新興ブルジョアたちに人気を博したのをきっかけに、印象派はようやく経済的にも陽の目を見るのですが、その恩恵を受けられたのは、時代が彼らに追いつくまで長生きをしたルノアール、モネ、ピサロくらいでもありました。

その中で、印象派に深く関わったものの印象派とは一線を画していた画家もいます。1862年に出会い、その後の印象派を牽引したエドゥアール・マネエドガー・ドガです。

マネは、印象派の父と呼ばれながら、印象派が嫌う「黒」を自由に使い、実は一度も印象派展には参加をしていません。そして、芸術アカデミーが主催する「サロン展(サロン・ド・パリ)」に意欲的な作品で挑み続けました。

ドガは、若い頃に新古典派のアングルからデッサンの重要性を説かれているので、印象派が好む「色彩」ではなく「描線」を大事にしました。そして印象派展に盛ん(8回中7回)に参加しながら、サロン展でも入選を繰り返します。それなのに、芸術アカデミーの権威主義的な態度に、マネやその他の印象派の画家たちと共に反発していました。

マネ、ドガそれぞれが、高級官僚、新興ブルジョアの銀行家の家に生まれて、経済的な余裕を背景に挑戦を続けられたという側面を差し引いたとしても、枠にはまりたくないやんちゃな気質であったことはほぼ間違いないと思います。

後編につづく

エドガー・ドガの作品
アイロンをかける女たち
青い踊り子たち
スター、舞台の踊り子
若い女の肖像

著者:一般社団法人日本美術アカデミー
プランニングディレクター 高柳茂樹