パリ1区に1927年開館の「オランジュリー美術館」がある。元々は、貴族たちのオレンジ栽培用温室だったものを、自身も“ジャポネズリー”であり、仏首相でもあったクレマンソーの主導で、親友であった(仏)クロード・モネ(1840~1926)のための美術館として改装したのだから、当時のフランス美術界でのモネも相当な大物だった。
美術館の目玉でもあり、モネの代表作でもある、高さ4m幅20mの大作『睡蓮』(1920-1926年/オランジュリー美術館 蔵)の連作が4枚ずつ、それだけのために造られた二つの部屋に合計8枚飾られている。
ただ、大作を描き終ったモネは、美術館の開館を待たずにこの世を去ってしまっているから、ふんだんに外光が降り注ぐ部屋に360度のパノラマで飾られている『睡蓮』を観ることはなかった。
モネもまた“ジャポニスム”に魅せられた画家の一人で、『睡蓮』が横長のキャンバスに描かれているのは、絵巻物や屏風の世界観を採り入れたのだと云われている。最初の部屋に飾られている『睡蓮』の(4つの)“連作”という手法も、葛飾北斎のように“時間の流れ”を表現するために用いられ、朝、昼、夕暮れ、夜の“睡蓮”を描き分けている。
二番目の部屋の壁を埋め尽くす『睡蓮』には、明るい朝の風になびく“柳”が描かれていて、80歳を過ぎて最晩年を迎えてなお、時間だけではなく空気の流れまでも表現しようと挑んでいる。そこには「自然は常に変化している。石さえも」と言ったモネの思いが感じられる。
モネは“ジャポニスム”から“自然との距離感”を学んだのではないかと思う。美意識の真ん中に“人工物”を置くのが西洋だとしたら、日本の美意識の真ん中には“自然”がある。西洋美術ではほとんど考えられなかった“自然との共生”こそが、最後までモネがこだわった主題だったのではないかという気がする。
43歳から亡くなるまでの43年間を過ごした、パリの北西60kmに位置するジヴェルニーに、今でも残るモネの住居の居間には、壁を覆い尽くすように浮世絵が飾られていて、200枚以上の浮世絵を所有していたらしい。
ゴッホと同じく、浮世絵に描かれた“花”に魅せられたモネは、100種類以上の花が咲き誇る「花の庭」を造った。その中には、わざわざ取り寄せた日本の花もあるらしい。
「花の庭」から竹林を抜けると、睡蓮を浮かべた池のある「水の庭」が現れる。池には日本風の太鼓橋が掛けられている。モネは「私の庭が、私の最も美しい傑作だ」とも言ったから、この日本的な庭への愛着は相当なものだったに違いない。
生活する環境にまで“ジャポニスム”を採り入れて、“手法”や“主題”だけでなく、目には見えない“空気”からも何かを吸収しようとしたモネに「大事なものは目に見えないんだよ」という「星の王子さま」(サン・テグジュベリ作)の言葉を思い出す。
若い時に描いた『ラ・ジャポネーズ』(1876年/ボストン美術館蔵)についても、自身で「単なる浅薄な日本趣味に過ぎない」と恥じ入るように言ったモネは、晩年になると「水の庭」に浮かんだ『睡蓮』の作品群を発表した時に「作品の源泉をどうしても知りたいなら、そのひとつとして昔の日本人と結び付けてほしい。彼らの稀に見る洗練された趣味はいつも私を魅了してきた」と言ったから、ジヴェルニーでの暮らしは確かにモネの中に目には見えない“ジャポニスム”を息づかせたのだと思う。
そして、ゴッホやモネの“ジャポニスム”への思いは、「日本人の好きな画家」の上位にいつもゴッホとモネがいることで、僕たち日本人にもしっかりと伝わっている。
(了)