謎多き画家の空白を埋めた宗教画
- 1889年10月10日~1947年12月30日
- 『エマオの晩餐』
(ボイスマン・ファン・ベーニンヘン美術館/1936年)
他10数点
*解決
ヒトの価値観はそれぞれだから、目的に「正義」はなくて、そこに向かう「やり方」にこそ「正義」があるはずだから、そういう意味で第二次世界大戦時のナチス・ドイツは、人類史上の中で最も糾弾されるべきやり方のひとつだったと思う。少なくとも民主主義の世の中で、他者の価値観を否定する考え方は、逆にそのことこそが否定されるべきだ。
若い頃に、画家を目指した独裁者は、名門ウィーン美術学校の受験に失敗し、古典を志向する彼の描く作品は、巧みな弁舌からは想像もできないような凡庸な風景画が多くて、印象派、象徴主義、アール・ヌーヴォーといった、まさに美術が新しい世紀に向かっている時代には受け入れられなかった。
画家になることを諦めた青年は、政治家になって母国の復興を目指すのだけれど、急進的な思想は、自らの価値観に合致しないものを否定していく。そのひとつが古典から離れていく「世紀末芸術」と呼ばれる一連の作品だった。それらを「退廃芸術」と唾棄して焼き捨てる一方、古典美術を略奪して自らのコレクションにした。
日本でも、安土・桃山時代が日本のルネサンスと云われるように、戦国の世には文化、芸術が栄えることもある。死と隣り合わせの武将たちは、一方で現世を華やかに彩ることで生を謳歌したのかもしれない。
ただ、ヒトラーのやり方は、いかにも善くない。個人の嗜好はあったとしても、自らの価値観を解放して、むしろ異なる価値観に目を向けることこそが、芸術の楽しみ方だからだ。
略奪の限りを尽くしたナチス・ドイツは、貯えた財力で自らの価値観と合致した古典美術も買い漁った。特に、絵画の黄金時代と呼ばれるバロック期の美術はお気に入りだったようで、中でも数の少ないフェルメールの作品が好まれた。
そんなナチス・ドイツをお得意様にして、今では30数点しか遺っていないと云われるフェルメールの作品を数多く売リ捌いた画商がいた。(蘭)ハン・ファン・メーヘレン(1889~1947)だ。
幼い頃から画家を目指していたメーヘレンは、親の強い希望で建築学部に進学した後に、結局は反対を押し切って画家になるけれど、写実的・古典的な彼の作品もまた当時の美術界に受け入れられず、画商へと転身する。
デルフトの工科大学に進学した頃のメーヘレンは、勉強の合間を縫って美術館に通い、当時まだ再評価が進んでいなかったフェルメールの作品、特に『デルフト眺望』(マウリッツハイス美術館蔵/1660~1661)の前で何時間も過ごし、自らの思いを貫いて画家を目指したと云われているように、フェルメールへの執着が人一倍強く、画商になってからも「没落貴族から買い取った」フェルメールの宗教画を大量に手に入れることで成功を収める。
オランダでも、20世紀に入ってようやくフェルメールの再評価が進んだ頃だから、フェルメールの宗教画は、謎多き画家の空白を埋める世紀の大発見だと話題になり、特に『エマオの晩餐』(ボイスマン・ファン・ベーニンヘン美術館/1936年)は、フェルメールの最高傑作として高額でボイスマン美術館に買い取られたりもしている。
メーヘレンは、この他にも「没落貴族から買い取った」フェルメールの作品10点余りの中から、いくつかを(オランダの)敵国ナチス・ドイツへ売った。誰彼構わず売り捌く商売っ気というよりは、実は(墺)エゴン・シーレ(1890~1918)をはじめとする「世紀末芸術」を持て囃し、古典美術を軽視するオランダ美術界へ復讐する気持ちもあったのかもしれない。
ところが、1945年にナチス・ドイツの降伏で終戦を迎えると、メーヘレンは国の宝であるフェルメールの作品を、ナチス・ドイツに売り渡した売国奴として逮捕されてしまう。ナチス・ドイツへの協力者、オランダ文化財の略奪者への求刑は重罪で、またしてもフェルメールに関わった人物に、数奇な運命が訪れた。
(つづく)